2008年11月11日火曜日

絶対印象主義の世俗性―まとめとして


 スポーツシーンにおけるスペクタクル性の人工的増幅は、NBAファイナル、ワールド・シリーズ、スーパーボウル(注1)からオール・スター戦、ボクシングの世界戦、ライスボウル(注2)に至るまで、年々顕著な展開を見せ、それが何気なくチャンネルを合わせただけに過ぎない視聴者を、強く印象的に捕捉する。そして、加工的増幅に走らない普通のスポーツシーンを、少しずつ、しかし確実にオールドファッション化してしまうのである。(写真はNFL)

 今では、印象的なスペクタクル性に欠ける、「暗い、じめじめした」情報は、そこに固有の商品価値を持つものではない限り、殆ど見向きもされないであろう。

 大体、空気を突き抜けるほどの実力を持っていれば、アトラクティブ・スマイラー(微笑むだけで、他人を惹きつける人)を演じる必要すらなく、無能な大人を虚仮(こけ)にしても喝采を浴びることも可能である。しかし、実力を継続的に保証していくこと自体、並大抵ではなく、それを貫徹できる稀有なスペシャリストの天才性は参考にはなるまい。

 それに対して、多くの凡人は視覚先導による絶対印象主義の世俗性の中に、そこそこに嵌(はま)って、より愉楽性に満ちた日常を彩ることに腐心している。

 エンドレスな日常に少しでも振幅を持たせるため、人々はホビーの世界を開くことを捨てないであろう。大衆的に集合しやすい様々なホビーは、人々のダイレクトなニーズに対して、当然の如く、鋭敏に反応する。より刺激的で、より視覚的な映像がそこに大量生産されるから、いよいよ初発の印象が充分な捕捉力を持つような情報こそが。そこで選択されるのである。

 こうして世には、初発の捕捉力を持つ商品が氾濫し、その商品の突破力が空気を難なく制覇する。視覚の氾濫が止まらなくなるのだ。
 
 価値は表層にあり。
 
 表層に滲み出てくることなく、滲み出させる能力の欠けたるものは、そこにどれほどのスキルの結晶がみられても、今、それは何ものにもなり得ない。奥深く沈潜し、価値が価値であるところの深みを彷徨する時間を楽しむには、我々は多忙過ぎる。動き過ぎる。移ろい過ぎる。ガードが弱過ぎる。沈黙の価値を知らな過ぎるのだ。

 表層を嗅ぎ分けるアンテナだけが益々シャープになって、ステージに溢れた熱気が、文明の不滅なる神話にほんの束の間、遊ばれている。               

(本稿の脱稿は1996年末。なお本稿の一部については、2007年以降の補筆である)



(注1)NFL(アメリカンフットボールリーグの略で、1920年に創立)の王座を決める、アメリカのスポーツ文化の頂点に位置するビッグイベント。ナショナル-コンファレンス( NFC )とアメリカン-コンファレンス( AFC )の優勝チームが対戦する。 

(注2)アメリカンフットボール日本選手権のこと。学生代表と社会人代表が、毎年1月に、東京ドームで王座を賭けて雌雄を決する。以下、日本アメリカンフットボール協会の公式HPを紹介する。 

 「日本アメリカンフットボール協会は、アマチュアの団体であり、国内唯一のアメリカンフットボールの統括団体として、その普及と発展のために活動しています。 日本アメリカンフットボール協会に所属しているチームは、中学、高等学校、大学、社会人と大きく4つの種別に分けられています。また地域的には、大きく東日本と西日本の2つに、細かく、北海道、東北、関東、甲信越、東海、北陸、関西、中四国、九州の9つの地域に分けられています」

 因みに、その目的は以下の通り。
 
 「この団体は、わが国におけるアメリカンフットボール競技界を統括し代表する団体として、アメリカンフットボール(タッチフットボールを含む)を普及振興し、その健全な発展を図るとともに国民体力の向上と明朗なスポーツマンシップの函養につとめ、もって社会文化の向上に寄与する事を目的とする」(公式HPより)

 

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