2008年11月11日火曜日

補論:視覚の氾濫


       

 視覚の氾濫は、スポーツシーンに留まらない。

 文化なる過半の記号に様々な装飾が施されていて、この目眩(めくるめ)く時代の隅々をも照り返さずにはいられない。時代はすっかり陰翳を失ってしまったのだ。(写真はドジャー・スタジアム)

 沈黙を失い、省察を失い、恥じらい含みの偽善を失い、内側を固めていくような継続的な感情も見えにくくなってきた。多くのものが白日の下に晒されるから、取るに足らない引き込み線までもが値踏みされ、僅かに放たれた差異に面白いように反応してしまう。終わりが見えない泡立ちの中では、その僅かな差異が、何かいつも決定的な落差を示しているようにならなくなる。

 陰翳の喪失と、微小な差異への拘り。

 この二つは無縁ではない。

 陰翳の喪失による、フラットでストレートな時代の造形が、薄明で出し入れしていた情念の多くを突き崩し、深々と解毒処理を施して、そこに誰の眼にも見えやすい読解ラインを無秩序に広げていくことで、安易な流れが形成されていく。そこに集合する感情には、個としての時間を開いていくことの辛さが含まれている分だけ差異に敏感になっていて、放たれた差異を埋めようとする意志が、ラインに乗ってもがくようにして流れを捕捉しにかかる。流れの中の差異が取るに足らないものでも、拘りの強さが、そこで差異感性をいつまでも安堵させないのである。

 このような時代の、そのような差異感性の辺りには、縦横にアンテナが張り巡らされていて、そこに集合する情報の雲海から垂れ流されるシャワーをいつも無造作に浴びてしまうから、人々は動かないと、移ろわないことに我慢し難い感性を育んでいってしまうのである。

 差異を放たれるのを恐れる人々は、差異を放つ快感に必ずしも生きようとしているわけではない。差異を見つけにくい関係の中にも嵌り難く、そこに気休め程度の差異を仮構して、存在の航跡を確かめていかざるを得ないのである。人は皆、他者とほんの少し違った何者かであろうとしているに違いなのだ。

 そんな人々を、視覚の氾濫が囲繞する。

 シャワーのようなその情報の洪水に、無秩序で繋がりをもてないサウンドが雪崩れ込んできて、空気をいつも飽きさせなくしているかのようである。異種の空気で生命を繋ぐには立ち上げ切れないし、馴染んだ空気のその無秩序な変容に自我を流して、時代が運んでくれる向うに移ろっていくだけだ。

 一切を照らし出す時代の灯火の安寧に馴れ過ぎて、闇を壊したそのパワーの際限のなさに、人々は無自覚になり過ぎているのかも知れない。視覚の氾濫に終わりが来ないのだ。薄明を梳(と)かして闇を剥(は)いでいく時代の推進力は、いよいよ圧倒的である。

 照らして、晒して、拡げて、転がして、塞いで、削ろうとする。その照り返しの継続的な強さが、却って闇を待望させずにはおかないだろう。

 都市の其処彼処で闇がゲリラ的に蝟集(いしゅう)し、時代に削られた脆弱な自我が突進力だけを身にまとって、空気を裂き、陽光に散る。陽光が強いから翳(かざ)そうとし、裂け目を開いて窪地を作り、そこに潜ろうとする。

 陽光の下では、益々熱射が放たれて、宴が続き、眼光だけが駆け抜ける。そこでは、刺激的なる一撃は、次の一撃までの繋ぎの役割しか持たず、この連鎖の速度が少しずつ増強されて、視覚の氾濫は微妙な差異の彩りの氾濫ともなって、いつまでも終わりの来ないゲームを捨てなくてはならないようである。動くことを止められないからである。


      

 敬遠の四球を投げることを屈辱的だと考えて、マウンドで泣いた投手がいた。

 溢れてくる涙を止められなかったに違いないそんな異様な光景を、確かにテレビ画像は同情含みで映し出していた。消化試合ゆえ、その画像はお茶の間にリアルタイムで届けられなかったが、深夜の格好のセールス商品となって、その不条理を批判する各種コメント付きの報道がしばらく続いた。例年、この時期に展開されるお馴染みの光景が、いよいよお国柄のスポーツ文化の、そのネガティブな有りようを際立たせる印象を強めてきたように思われるのだ。その一点に、私の関心は惹起されたのである。

 思えば、その昔、松永選手への11連続敬遠四球のエピソード(注1)の「理不尽性」は、この種のタイトル絡みの敬遠劇の極北の感があった。同選手は怒りを込めて、大きくコースを外れたボール目掛けて、自らのバットを投げたのだ。

 しかしこんな激越な事例も、「涙の敬遠劇」のインパクトに届かず、まもなく雲散霧消していったというだけの顛末に終始したのである。

 しかし今、スタジアムでのブーイングの大きさは、良かれ悪しかれ、つまらないプレーに対して必要以上の拒否反応を持って応える、アメリカン・スポーツのコピーそのものであるように見える。明らかに、より刺激的で、より劇的なスポーツシーンを求める人々の欲望の氾濫が、そこに巨大な渦を巻いている。消費としてのスポーツの堪能が、敬遠劇の茶番によって著しく阻害された苛立ちが、巨大なブーイングの中に集合する。これが今、時代を大きく動かしていくのだ。

 あのスタジアム全体を揺るがすようなウェーブ現象を見ればいい。

 ウェーブの嵐が、付き合い観戦で球場にやって来たノンフリークたちを強制的に立たせて、踊らせて、酔うことの共有を暗黙裡に迫るのである。見知らぬ他者が坩堝(るつぼ)の中で溶かし合う現象は、まさに私たちに馴染み深い、様々なる「祭り」の儀式のそれに似た一種不可避な様態であるに違いない。

 しかし今、この熱狂が立ち処にメディアを動かし、一気に国民的話題を作り上げていく。しばしば、旧来のケチな慣行に過ぎなかったものが凶悪犯人に仕立てられ、集中的に叩かれて、屠られる。

 松永選手の事例は極端であるにせよ、果たして、タイトル絡みの敬遠劇がそれほど罪深いものであるのか、一考の余地があるだろう。

 この行為を、チーム内の集団主義のシフトというラインで考えてみれば分りやすい。即ち、その年のペナントを手にするまでの集団主義という黄金律が、我がプロ野球には厳として存在する。オール・フォー・ワン(一人の栄誉の達成のために仲間が協力する)の理念は、無論、ラグビーの専売特許ではない。重要なのは、この理念がペナントの行方が定まった日から、オール・フォー・ワンという理念に根ざす集団主義に大きく振れてしまうという事実である。日本人の集団主義の根深さが、そこにある。

 一年間頑張ってタイトルに手が届くところにいる選手に、他の仲間が一致協力してプレーを演出するのは人情でもあるし、そうしなければ、和を乱す輩という烙印を押されることへの恐怖感もある。

 この集団主義に、今、時代のウェーブが襲い掛かっているかのようだ。

 若年層を中心にしたアメリカ流の個人主義が、視覚の氾濫をもたらす巨大なスペクタクル社会のグローバルな展開に乗って、視覚的には醜悪なるものと感受されるだろう、この国の集団主義のケチな慣行を恫喝しにかかっているのである。

 プロ野球は今、大きく化けることを強いられているように見える。果たして、この急速な時代の変化に、我らがプロ野球は堪え切れるのか。グローバル化社会の泡立った時代の流れに、その身を埋没させることなく、人々がそこに求めた本来的な思いを繋いでいけるのか。目眩(めくるめ)く眩いまでの時代の陥穽を、確信的に突破できるのか。


       

 プロ野球シーンでの、タイトル争いに絡む敬遠を醜悪視する空気が、ここに来て広がりを見せている。

 これは、「野球」が「ベースボール」に接近しつつあることの反映でもある。それには、日本人の大リーグ入り以降、この国で大リーグ中継の放送が増えてきたことによって、本場のベースボールの臨場感溢れるフィールドの格闘技を、リアルタイムで堪能できることになったことが何と言っても大きいだろう。市場を世界的に拡大したいと考えている大リーグの戦略の一つとして、野球という文化を持つ日本の市場が開拓されつつあるということ、これが今、プロ野球の文化伝統に微妙な波動を与えているのである。

 よりエキサイティングなシーンを待望するファンの声に鋭敏に反応して、ベースボールは一大文化としての進化を果たしてきた。このベースボールの醍醐味が、この国の茶の間にダイレクトに届けられるのだ。マグワイアとソーサが「堂々」と勝負し合って、そこで本塁打を放つ。このシーンが私たちに与えた影響は大きく、勝負を回避する日本のプロ野球の卑小さを際立たせてしまったのである。
 
 集団主義を重んじる日本人が、消化試合における、シフトされた集団主義(チームのための個人の協調→個人のためのチームの協調)の有りように耐え切れなくなってきた。彼らの中には、消化試合を失くせと言う者までいる。即ち、リーグ優勝が決まった時点で公式戦を打ち切ってしまえば、敬遠合戦を事前に防止できるというのである。

 しかし、この案はいかにも乱暴である。

 例えば、10試合残して公式戦を打ち切られたチームに、僅か一本差で、或いは、僅か一厘差でホームラン王、または首位打者を狙う選手が在籍していたらどうするのか。打撃部門の首位を走る選手の消化試合が少ない場合、今度はその選手のタイトルを保証するために、その選手のチームメイトが、首位独走のチームのリーグ優勝を、ペナントの早い段階でアシストすることだって不可能ではないのである。

 私に言わせれば、制度を幾らいじくっても消化試合の敬遠劇は消滅しないと思う。その底流に、この国に根強い集団主義が深々と寝そべっているからだ。私たちの国のプロ野球は、ここで暮らす人々の生き方や生活哲学の縮図となっているのである。この国では、帰属集団のルールこそ絶対的であり、唯一の憲法とさえ言っていいのである。

 従って、先の「涙の敬遠劇」は、集団内では明瞭なルール違反となるのだ。

 タイトルを争うチームの仲間に非礼なるし、それ以上に、「君のこれまでの勝利の陰に、ナインの協力があることを忘れるな」という組織の声を無視できないのである。ここを突き抜けられる日本人は、継続的な能力の高さが客観的に認知された特殊な場合に限られる。涙の投手のその翌年の活躍は、誰も保証できないのだ。だからこそ、協力すべきときにはその労を惜しむなという暗黙の恫喝が、この国ではリアリティを持ってしまうのである。

 帰属集団のルールの遵法にのみ生きる日本人の集団主義(逆に、帰属集団外では、「旅の恥を掻き捨てる」ことができる)が、プロ野球シーンで槍玉に上がっているようにも見えるが、果たして、筋肉のぶつかり合いでしかないような本場のベースボールへのアプローチが、日本人の準国技であるプロ野球を、その基層から変質させることが可能なのか。

 同じ球技でも、プレーの自由度が高い分、フィールドに自我を表出し得るサッカーとは違うのだ。丸ごと監督の指示で動く野球の組織度の高さが、プロ野球をベースボールと決定的に分けている。パワーの絶対量の不足を、チームプレーや個人のスキルの強化で補っているプロ野球を、安直にベースボールと比較するには無理があるということだ。

 ラグビーやサッカーから分れて、徹底的に合理的なアメフトを作り出したアメリカは、プレーに偶然性(注2)が入り込むことを最も嫌うから、パワーと技術の純度を高める方向にベースボール(と言っても、各チームのボールパーク=野球場の設計には、偶然性を許容する個性が存在するが)を進化させていく外はなく、組織力で勝とうとするプロ野球との乖離は簡単に縮まらないように見えるのだ。

 ともあれ、ベースボールの表層の視覚的部分だけを鍍金(めっき)仕立てにして、集団主義で貫かれたプロ野球が、それなしにリーグ制覇できるという地平に逢着する見込みが稀薄であるのもまた、充分に確からしいと言えようか。プロ野球がどれほどベースボールに接近しても、内側からこぞって化けてしまう事態の到来が迫っているとは思えないのである。


      

 あらゆるものが沸々とし、過熱して来ている。

 バブルが遠く去った世の中とは思えないほど、其処彼処(そこかしこ)で風景がけばけばしくなってきて、その眩いばかりの彩(いろど)りが視界を印象的に埋め尽くす。

 市街にはファミリーカーが溢れ、人気のレストランに列をなす。前宣伝の派手な挌闘技のイベントに、洒落た出で立ちの若者が蝟集(いしゅう)する。渓谷にはフライ・フィッシィング(注3)、湖にはバス釣り(注4)の、磯には投げ釣りの面々がエリアを占拠し、ビューポイントにはアマチュアカメラマンが好ポジションを争って、その群がりの様自体が滑稽な被写体を提供している。運動会では、ビデオ撮影の好位置を目掛けて、早朝から子供孝行のパパさんたちが校門に待機するのだ。禁煙指定のないプラットホームには、銜(くわ)え煙草の老若男女が足を組んで電車の入線を待ち、その傍らで、厚底靴の若い男女が携帯片手に、大声で耳障りなプライバシーを周囲に放っているのである。

 閑静なはずの図書館では、幼児らが館内を駈け巡り、それを注意する図書館員の姿に出会うことは稀である。子供を注意する親の叱咤の台詞の中では、「叱られるから、走るのを止めなさい」という信じ難い親のメッセージも多く、しばしば茫然自失。「ここは本を借りたり、読んだりする所だから騒ぐな」という注意を稀に聞くと、却って感心してしまったりもする始末。

 風景のけばけばしさの印象は、人々の私権があらゆるエリアで噴き上がって来ていることの、その加速的で、集中的な表現であるようにも思える。それぞれの軽快なステップによる様々な身体表現がそこに媒介されることで、少なくとも、私たちの視覚に印象的に捕捉されてしまうのか。視覚の氾濫は私権の氾濫だったのか。

 私権の氾濫の目眩く舞踏のステップが、時代の空気を無秩序にクロスし、緩慢であること、反応が鈍いこと、潜り込んでしまうこと、偏屈であること、身奇麗でないこと、歌わないことなどを感覚的に異化しつつ、より刺激的な展開を描き出していくのだ。

 豊穣なるものへの幻想と、名状し難い欠落感覚への戸惑い。移動することによってのみ埋められると信じる時代の消し難き芳香が、人々を押し上げ、転がし、その眼光を搦(から)め捕っていく。大いなる時代や軽やかなる舞踏の饗宴が、そこから離脱することへの恐怖をも多分に随伴して、ラインが見えないほどの広がりの中で波立っているのである。             

(本稿の脱稿も、「スポーツの風景」と同様に、1996年末である。また本稿の一部と「筆者注」については、2007年3月時点での執筆である)


(注1)阪急時代の1988年に、高沢選手との首位打者争いの中で、11連続敬遠四球という、当の本人の意に沿わない日本新記録を樹立することになった。

(注2)競技の偶然性を重視するスポーツイベントが、ヨーロッパにある。モナコグランプリという名の、伝統的なF1コースがそれである。モナコグランプリは市街を走るためにコースの幅が非常に狭く、且つ、直線が少ないが故に多大な危険性が伴うことから、ドライバーの超絶的技術が要求されるのである。このモンテカルロ市街地コースでのF1レースには、まさに競技の偶然性の要素を摂取する思想が脈打っているのである。

(注3)フライとは、擬餌鉤(ルアー)の一つのこと。鉤に羽毛などを巻いくことで、水生昆虫のように見せる。このフライを使って、イワナ・ヤマメなどの渓流魚を釣る、一種、スポーツ感覚の流行的なフィッシィングの手法。

(注4)ルアーを使用しての「ゲームフィッシング」として、最も人気が高い。その対象魚は、言わずと知れた「ブラックバス」。大正時代末期に、赤星鉄馬(「大正銀行」の頭取を勤めた実業家)が、アメリカから持ち込んだ外来種であるブラックバスを芦ノ湖に放流したことに淵源するが、今では、「ブルーギル」と共に、その魚食性と繁殖力の高さから、国内の生態系を壊すという問題を惹起させて、法規制されているものの、「ゲームフィッシング」の是非論が問われている。「ランカーサイズ」(50cm以上のバス)のブラックバスのフィッシングが人気になっていることは、周知の事実。


 【まとめに代えて】

 様々に分化し、拡大的に普及・定着していった近代スポーツは、今、高度大衆消費社会の中で、個々の多様なる好みのサイズによって特定的に切り取られ、存分に蕩尽されていく流れは既に自明であるだろう。

 そんな眩い時代の中で、いよいよ過半の人々の熱狂を作り出し、その熱狂を上手に自己完結させながらもなお、それを継続させていく感情文脈があるとするならば、それは本稿で言及してきた「勝利→興奮→歓喜」というライン以外ではないと言っていい。

 その感情文脈のラインが存在するからこそ、多くのの人々の熱狂を誘(いざな)うスポーツの圧倒的な求心力は、そこに不滅の輝きを放って止まないのである。

 この感情文脈のラインは多くの人々の熱狂を継続的に保証しながら、絶えず適正なタームで自己完結させていく合理的なスキルの導入によって、そこだけは上手に切り取られたような特定的な時間を合法的に管理し、殆ど予定調和の見えない流れの中で、特定的な時間に熱狂を集合させた人々の感情を、本来の日常性に戻していく作業を疎かにすることはないであろう。

 近代スポーツはいよいよ「祭り」の様相を顕在化させてきて、そこで噴き上がって来る得体の知れないほどの情動の集合に対して、社会の規範や秩序を統括する国家主体が没交渉で遠望するスタンスに留まるわけがないのである。

 因みに、「性」、「暴力」、「ドラッグ」と「祭り」を野放しにする国家が存在するはずがない。それらは社会の大きな秩序を撹乱する要素を内包しているので、相互にリンクする負性の状況を作り出してしまうことの怖さを、経験的に学習できていない国家の存在はあり得ないと言える。従って、「祭り」の様相をより顕在化させている近代スポーツが、国家の管理の枠から逸脱して、奔放自在な解放的展開の特権を手に入れることなど考えられないのである。


 ―― 本稿を脱稿した、20世紀末のスポーツ文化の状況から早や8年。益々、「祭り」としてのスポーツの風景は際立ってきた感が強い。この流れはいよいよ加速するばかりである。そんな中で人々は、特定的な時間に集合させた熱狂を、本来の日常性に戻していく規範的な作業の継続的で、確信的な営為に戸惑っているようにも見えるのだ。

 野球好きな私の場合に関しては、脊髄損傷者としての不自由な生活と付き合って丸7年というもの、野球シーズンになると、午前中のメジャーリーグ観戦と夜間のプロ野球観戦を日常化しているので、殆ど野球漬けの毎日になってしまうという始末。

 その野球漬けの日々の中で、私もまた、「勝利→興奮→歓喜」という感情文脈のラインにすっかり搦め捕られてしまっていて、正直、その日常性はシーズンオフのそれとは明らかに齟齬(そご)が生まれているという具合。

 つくづく、近代スポーツの感情文脈が抱え込んでいるものの、その途方もない圧倒的なパワーを思い知らされるのだ。その感情文脈に抱かれている、些かエキサイティングな時間の中で、少しでも、自分の疾病からくる身体的苦痛を中和させることができる経験則によって、私はいつしか、この特段に眩い「劇的空間が放つ催眠効果」の加工された物語を受容し、時には過剰に弄(まさぐ)っていたのである。

 そんな私が意を決したように開いた新しい時間、それはシーズンオフにおける「映画評論」の私的作業だった。2005年の秋から始めたその作業によって、私は野球シーズンに入ってもなお、それを中断させることのない相対化の営為に、何とか成就したのである。

 「観るスポーツとしての娯楽」―― その心地良き世界との付き合い方について、私なりに出した一定の規範的文脈がある。稿の最後にそれについて、箇条書きする。

 以下の通りである。

 その一。

 「適正なスタンス」の確保である。

 近代スポーツの麻薬のような文化を愉悦していくには、常にそれとの距離感を絶えず測り、自分なりのスタンスを作り上げねばならないということだ。

 その二。

 「自己完結感」を不断に確認し、時間の始まりと終わりに納得づくのケジメをつけていくことである。

 その三。

 「相対化のスキル」を駆使していくことで、自分の了解可能な日常性を構築していくこと。相対化することによって、自分の日常性に潤いを持たせるような時間を作り上げていけば、そこに能動的で創造的な営為を開くことが可能になる。

 以上、極めて抽象的だが、この三つの自己規範を堅持していくことで、私は何とか、自分なりに納得し得る日常性を繋ぐことができたのである。

 私の場合、この日常性の中で手に入れるものの価値は、かけがえのないほどの何かであり、今ではそれなしに考えられない日常性を構築していると自負できるものとなっている。ここで手に入れたものの価値は、自分の残り少ない人生の時間を切に惜しむほどの何かとなって、私の日常性に「固有なる時間」という観念を固く結んでいるのだ。

 ようやく私の中で、脊髄損傷という、極めて厄介な疾病と付き合えるようになった次第である。

(2007年3月脱稿)

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