2008年11月10日月曜日

大衆消費社会のスポーツの未来


 大衆の熱狂と、そのコインの裏側にある苛立ちの激しさが、いつの間にか、現代スポーツを変色させてしまったようだ。プレーの主体はいつも何かに駆り立てられるようになり、空気を先取りして、それに応えるべく、超絶技巧への開拓に余念がないようにも見えるのである。

 勿論、その観念の中に今、「国家」の存在はない。そこにあるのは「個人」であり、「家族」であり、「組織」であり、「ファン」である。

 登山もまた、「人類」→「国家」→「組織」乃至「個人」(単独行)という観念シフトの中で、あれほど時代の中で泡立っていたはずの、言ってみれば、「大きな物語」に張り付いていた「使命感」という心地良きモチーフが、いつしか消滅してしまったようにも見えるのである。

 使命登攀から、ホビー登攀でもあるフリー・クライミング(注1/写真)へのシフトは、今や、一切の道具の使用なしに3メートルほどの岩場を登る、「ボルダリング」のような格付けの級段方式を採用したゲームスポーツの登場などによって、かつてのストイックなクライマー文化の範疇では説明できないほどに、限りなく劇的な転換であったと言えるだろう。

 加えて、樹木を傷つけずに木登りするという「ツリークライミング」になると、殆ど遊びとスポーツ、更に教育(木登りの体験学習)との区別をすることが意味を持たなくなると言っていい。アメリカの樹木医が発案したこの「スポーツ」は、我が国において、「ツリークライミングジャパン」という普及組織を持っていて、各地で活発な活動展開をしていることはニュースにもなるほどである。

 国民栄誉賞の植村直己(注2)の冒険行は、このシフトの橋頭堡(きょうとうほ)でもあったのか。

 このようにスポーツは、プレー主体から十字架の重量感を取り除くことに成功したが、それを埋めるべく、フィールドの興奮をより掻(か)き立てるようなサーカスの醍醐味へのニーズが、一段と強化されるに至ったのである。

 あの伝説的な死を遂げたF1レーサーのセナ(注3)は、ブラジルを背負っていたのではない。死と背中合わせのサーカスを期待した大衆の熱狂を背負っていたのだ。安全コストを代償にして、高速マシーンに進化した特殊仕様車を操って、その最強の機能の発現を、生命臨界点のギリギリのところで出し入れする危ういステージの上で、そこに爆発的にプールした熱狂に、F1レーサーが反応すればするほど、そのF1レーサーの自在性が少しずつ失われていくのである。

 ペナントを制覇した監督は、必ず、「ファンの皆さんのお陰です」などとリップサービスするが、この台詞が今、日々のヒーロー・インタビューの場で日常的に語られている。優勝の夜、川に飛び込むファンのパフォーマンスもまた年中行事化しつつある。

 近年、ライブ中継の視聴率が低下しつつありながらも、祭りとしての娯楽の本質はいよいよ過熱化し、「劇的空間プロ野球」などと形容され、誰も彼もが面白く、即物的で、刺激的なスポーツシーンを求めて止まなくなってきた。

 親分と称される某野球解説者は、「暗い、じめじめした野球は面白かねぇ」などと、およそ解説者らしからぬ言辞を吐いている。明らかに、氏は昨今のスポーツ過熱の現象を意識し、このような放言が受容される空気を嗅ぎ取った上で、敢えて言ってのけている。しかし、バントか犠飛で三進させた虎の子のランナーを、スクイズで還すという基礎的な戦術を、「暗い、じめじめした野球」というイメージで括って見せる、その貧困なる野球観を後押しするうねりは、今や軽視できなくなっているのだ。

 派手で、見えるところだけに評価が集中し、そこに熱狂が重なるスポーツの繁栄を保証するには、プレー主体の過剰な演技性と、熱狂に繋がるパーツの超絶技巧を繰り返し見せ続けなければならない。この辛さが、思いの外プレー主体に負荷がかかって来るから、選手寿命を蝕(むしば)んでいくと思われる。

 さすがに今、「権藤、権藤、雨、権藤」(注4)といったような苛酷登板は姿を消したが、昔と比べ物にならないほどの注目度の高さがプレーヤーを囲繞し、必要以上の刺激を放ち、彼らの自我を磨耗させるのである。

 150キロを超えた投球があった有力新人を追い駆け回し、夢の100マイルの速球(注5)のお披露目が今にも迫っているかのような煽りが収まらず、空気はいつも泡立っている。

 ある短期間にのみ目立った活躍した選手の、そのほんの入り口の辺りで、既に煽りを先取りするから、知らずのうちに、何か特定的なイメージによって印象を増強させていく。その期間が終息し、そこに商品価値となる何ものも見出せなくなったら、もうそれで有力新人へのフォローも幕切れとなる。一つの消費という現象が終焉しただけの話なのである。またスポーツマスコミは、新しい人々の気を引く商品を探しに行くだろう。それだけのことだ。

 しかし熱狂はいつも、苛立ちを随伴してしまう。

 不満足な消費で置き去りにされたエネルギーが、一つの集合された苛立ちの塊となって、犠牲の羊をも探しに行く。一回的消費の俄(にわ)かヒーローが、翌日には哀れな羊にも化ける。

 その昔、子供たちをあれほど熱狂させた「たまごっち」(注6)が、やがて不燃物のゴミになったように(新世紀を迎えて第二次ブームを起こしたが、メディア露出は抑制的だった)が、消費の醍醐味が見えなくなれば、いかなる仮構のストーリーも、そこに束の間、華麗に舞った俄かヒーローも、殆ど無感情に廃棄されていく運命を避けられないのだ。大衆消費社会のこの上ない愉楽と危うさが、方向を定められずに虚空を漂っていて、日夜、人々を夢の未来へと誘(いざな)って止まないかのようである。

 消費としてのスポーツが、今のように際限なく噴き上げていなかった頃、人々はまだまだ英雄を欲しがっていた。彗星の如く現れたヒーローに、自分の青春や人生を重ね合わせていくことで、そのヒーローは人々の自我の中で長く伝説化され、いつまでも生き残されていた。スポーツのそんな牧歌的な時代には、審判員もまた、今ほどピリピリしていなかったのである。

 警察官も学校教師も、町内の一家言を持つ説教おじさんも、そして我が家のお父さんや、隣居のおばさんも、必ずしも切れまくっていたわけではないのに拘らず、その存在自体が、ある種の脅威を漂わせているかのように感じられた時代があり、またその存在自体で、空気が引き締まってしまうような場所が随所にあった。

 子供の心に、殆ど無前提に規範意識が刷り込まれていたから、少しくらい気の弱い教師でも、教師であるというその一点によって、空気を制する下手な技巧が通用した時代が、まだギリギリに生き残っていたのである。戦後の民主化が急ピッチで進んでいても、私たちの大衆消費社会は未形成で、そこには共同体のエキスが充分に蔓延していたのだ。
 
 プロ野球も未だ1リーグ制の時代(1950年に2リーグに分裂)で、既に大衆娯楽の一方の雄であったが、自ら下したジャッジへの信念を決して曲げない確信的審判員の存在が認知され、それを伝説化する土壌がなお健在だったのである。二出川延明(注7)という名の男が、この頃作った伝説は、残念ながら今、同じ仲間によって継承されていない。写真と戦う審判員がいるはずがないからだ。

 中日杯争奪戦で球審を務めたその男は、ホームでのクロスプレーでアウトの宣告をしたが、一見するとセーフに見えたので、当然の如く、猛抗議を受けた。男はいつものように、抗議を全く受け付けない。相手もとうとう無駄な抗議を諦めて、ベンチに下がった。全く普通の出来事に過ぎないが、この国の野球文化にも、抗議が通用しないような審判がいて、それを許容する時代があったのだ。

 翌朝、このジャッジがミスであったことを証拠付ける写真がスポーツ紙に踊った。紙面を手にしたリーグ会長が、審判諸氏との会食の席上、「君、ミスをしたのではないかね」と、男に穏やかな口調で尋ねた。

 男はじっとこの写真を見据えた後、こう言い放って見せたのである。
 
 「会長、写真が間違っています」
 
 この予想だにしない確信的言辞に、会長は苦笑するしかなかったという。

 このエピソードに怒気を込めて反発する人は、プロ野球観戦者には絶対に向いていない。審判のミスジャッジの可能性を否定せず、それを受容してまでも機械に依拠する判定を拒む、野球というスポーツを楽しむには、ある種の覚悟が必要なのだ。「私がルールブックだ!」と言えるほどの確信的審判員だからこそ、この一貫したジャッジに異を唱える愚かさに気付かされるのである。(因みに、メジャーリーグでは、2008年よりホームランの判定に限ってビデオに依拠したジャッジが導入された)

 今、これだけの審判員が、この国に果たして何人いるだろうか。

 清原選手の幻のホームランの映像に対して、責任審判が「テレビの映像が間違っている」と放言したら、その居直りの厚顔無恥さを囂囂(ごうごう)と非難する、硬直した面々によるお仕置きが待っているに違いない。

 かつてこの国のメディアを騒がせた「サッチー騒動」(注8)なるものの中で、少年野球のどうでもいいトラブルまでも、公共の電波を使って「悪女退治」をいつまでも止めなかったこの過剰な時代では、居直り審判が蒙るサンクション(社会的制裁)に簡単に終わりが見えないであろうことは充分に察せられる。ましてや、審判の権威を普通の視野でアシストするスポーツ文化の片鱗も存在しない時代である。

 更にこの国には、審判員=プロ野球選手失格者という偏見が、プレーヤー・サイドに少なからずある。二出川神話は、当人が巨人の主力選手であったという出自に無縁だったとは思われないが、それ以上に、戦後文化の構造の中に、匿名社会の一方通行の卑劣なる攻撃性を、様々なツールによって未だ手に入れていなかった、ある種「長閑なる時代」が、そんな神話を生み出したとも言えるのだ。
 
 その時代が、今はもうない。

 審判は、そこでは消費の対象にすらなりえない。人々の視線の埒外に、彼らは存在する。大衆消費社会のスポーツの未来は、果たしてもう化けていく余地はないのだろうか。

 先に、親分と称される某野球解説者の発言(「暗い、じめじめした野球は面白かねぇ」)こそが、消費としてのスポーツの時流に乗った、ごく普通の大衆的気分を代表するものであることに言及した。このような物言いは大衆受けするのである。

 海の向こうのメジャー・リーグが、視覚的印象度の強い豪快な打撃戦にますます流れていったように、我がプロ野球も、四球の打者走者を犠打で送って、単打で還す3人野球よりも、スラッガーの一撃による、一人野球の「大艦巨砲主義」(注9)の方が、視覚的印象度を増幅させた分だけ、遥かに大衆の受容度が高くなる。現代は、視覚的な絶対印象主義の時代なのである。
 
 以上の現象は、何もベースボールシーンに限らないであろう。

 肉体と肉体が狭い範囲で炸裂し合うだけの格闘技シーンでも、ドームを借り切って、派手な演出で熱狂を作り出すK-1(注10)等の、その仮構空間の人工的なスペクタクル性は増幅するばかりである。これは、武道的イデオロギーを濃厚に映す極真空手(注11)の全国大会のその厳粛性とは、明らかに一線を画するものと言える。

 それは、鮮烈なスペクタクル性という衣裳を、その格闘技がどれほど必要としているかという需要度の落差でもある。それ以外ではないのだ。

 視覚的な絶対印象主義の氾濫は、ネット上に於けるWeb2.0等の参加型の情報爆発の、殆ど匿名性の快楽とリンクしつつ、いつでも必要な分のガス抜きを可能にする自己完結感を手に入れて、面白いように時代の表層を滑走しているかのようである。


(注1)「傾斜が緩ければ足だけでも登れますが、傾斜が増してくると、手を使わないと登ることは困難になります。ロッククライミングは、足だけではなく手も使い急峻な岩を登るスポーツです。 岩の凹凸を直接手足で保持して登ることをフリークライミングといい、クライミングの根元的なスタイルです(それに対し、人為的支点に体重をあずけて登ることをエイドクライミングといいます) 。

 墜落時の安全確保のためにロープを使用することもありますが、人工的な手段を使わないことが前提ですので、自分の身体能力を駆使して登るほかありません。ロッククライミングの対象は、そのスケールや自然条件によっていくつかのカテゴリーに分かれています。

 比較的規模の小さな岩場を登ることを“クラッグ)崖の意味)クライミング”といいます。小さい岩場では、大きな岩壁や山岳でのクライミングとは異なり、いかに急峻で手がかりに乏しくともフリークライミングで登るのが普通です。フリークライミングは本来スタイルを表す言葉ですが、日本の場合はやや他国とは異なる歴史的事情により、このクラッグクライミングを指してフリークライミングと呼んでいます」(「日本フリークライミング協会」HPより)

(注2)1970年にエベレスト登頂に成功するが、マスコミで扱われる登頂者のみの脚光への不満から、彼の冒険スタイルは単独行に移行した。その後の彼の単独行は、航空機のサポートを受けての「犬橇(いぬぞり)による北極点到達」に象徴される、大規模な擬似「単独冒険」へと発展していったように思われる。しかし1984年に、厳冬期のマッキンリー登山に挑むが遭難した。その遺体は今も発見されていない。

(注3)F1のワールド・チャンピオンに3度輝いた、ブラジルのレーサー。とりわけ1988年には、マクラ―レン(イギリスのレーシング・チーム)に移籍して、当時最高のレーサーであったプロスト(F1グランプリで51勝を上げたフランス人)と組んで大活躍をした。1994年、レース中にマシーン・コントロールを失って、コンクリートの壁に激突し、頭部強打による事故死。

(注4)中日ドラゴンズの権藤博(現在、プロ野球解説者)が、1961年にノンプロ(ブリヂストンタイヤ)から入団して僅か2年間で、72勝の勝ち星を挙げるほどの活躍をしたことから、この有名な言葉が生まれた。

 因みに、3年目以降からは、苛酷登板の影響で成績は急降下して、1968年には引退に追い込まれた。後に「横浜」の監督になって、日本シリーズをも制覇するが、その投手起用は、「先発、中継ぎ、抑え」という完全分業制を遂行することで一貫していた。明らかに、その起用には自分の経験からの反省があったと思われる。

(注5)時速100マイルは、160キロのスピードに値する。本場アメリカでは、100マイル投手は、殆ど全てのチームに存在すると言っていい。因みに、1960年代半ばまでマイナー・リーグで活躍した、ダルコウスキー(サウスポー)が、110マイル近い速球を投げたとも言われているが、私自身は未見である。

(注6)株式会社バンダイ(玩具を中心として、様々な生活用品を製造・販売するメーカー)によって発売されたゲームで、1997年に爆発的な社会現象を作り出した。

(注7)日本のプロ野球が発足した1936年に、自分の胸を突き飛ばした選手に対して、当時、史上初の「退場宣告」した審判が二出川延明であったというエピソードでも分るように、長い審判歴の間に多くの伝説的ジャッジを含む逸話を残している。

 中でも、ボールと判定したことへの抗議に対して、「気持ちが入ってないからボールだ」と一括した逸話は、審判が確たる信念を持って試合に臨むことの大切さを示唆していて、とても興味深い。一瞬のジャッジに対して、機械に委ねることを一切しない、「野球」というスポーツ文化における審判の存在感の大きさを、改めて確認する思いである。           
                                   
(注8)1999年、当時阪神の監督であった野村克也の妻であり、タレントでもあった野村沙知代が、交友関係のある浅香光代によって、公職選挙法違反(選挙に立候補した際に、経歴詐称したというもの)で告発されたが、結局、不起訴処分となった。その間、芸能界を中心にメディアの格好の消費(私はこのような現象を、「特定他者の消費の構造」と呼んでいる)の対象とされ、「サッチー騒動」と称される、一連の低俗的な文化現象が出来した。

(注9)英国の戦艦として有名なドレッドノート(超ド級戦艦と呼ばれた)の影響で、20世紀前半の各国の海軍の主流は巨大な戦艦の製造にあり、その流れの中で、日本も「大和」や「武蔵」を造るが、この戦艦の建造を中心とする考え方を、一般に「大艦巨砲主義」という。

 因みに、第二次世界大戦の時点では、航空機を主力にした航空母艦による戦術に移行していった。日本の敗戦の根柢には、この視覚的印象度の眩いまでの、「大艦巨砲主義」への拘りがあったと思われる。

(注10)1993年に、正道会館の石井和義によって創設され立ち技中心の格闘技(キック・ボクシング、空手)で、フジテレビが主催するヘビー級のグランプリが成功し、現在、TBS主催のミドル級の大会も人気を呼んでいる。

 過去に、アンディ・フグ(2000年に死去)、ピーター・アーツ(三度のGP優勝)、アーネスト・ホースト(四度のGP優勝)レミー・ボンヤスキー(GP連覇)セーム・シュルト(空手出身だが、PRIDEのリングにも参戦)武蔵(二度のGP準優勝)、魔裟斗(日本人初のK-1MAX世界王者)等の著名選手を輩出する。

(注11)大山倍達によって完成され、今や世界の国々に支部を多く抱え、多大な影響力を持つが、大山の死後、各派に分裂した。以下、極真会館北九州支部のHPに紹介された、極真空手の精神について書かれた文を引用する。なお、会派内の分裂の結果、2003年に「新極真会」が発足し、テレビ東京等で大会の中継が行われている。

 「すべての武道は、いずれも厳しい自己修練を課し、その奥義を極めることによって自己の人格形成、すなわち人間としての正しい道を極めることを目指すものです。極真空手は、この武道本来の意味を全うすることを本義に置いています。

 また直接打撃制、無差別による実践的空手を通し、相手の痛みを知ることによって、人間本来のやさしさを知るという理念も、極真の信ずる道です。

 極真とは、 『千日をもって初心とし、万日をもって極みとする』という武道の格言から発した名称です。完成はないと言われるほどの、厳しく険しい武道の真髄を極める意です。極真会館に伝統的に受け継がれている精神である、『頭は低く目は高く、口慎んで心広く、孝を原点として他を益す』 とは、創始者である故大山倍達自身が、長年の厳しい修行人生の中で確立した極真精神です。

 また一方では、極真の挨拶『押忍(おす)』の精神には、尊敬、感謝、忍耐という精神があります。心身を錬磨すると同時に、伝統や礼節を重んじる極真会館での修行が、実生活に活かされると信じます」。(筆者段落構成)

 
 以下、そのエッセンス。

 「一、我々は心身を練磨し 確固不抜の心技を極めること
  一、我々は武の真髄を極め 機に発し感に敏になること
  一、我々は質実剛健を以って 克己の精神を涵養すること
  一、我々は礼節を重んじ 長上を敬し粗暴の振舞いを慎むこと
  一、我々は神仏を尊び 謙譲の美徳を忘れざること
  一、我々は智性と体力とを向上させ 事に望んで過たざること
  一、我々は生涯の修行を空手の道に通じ 極真の道を全うすること」

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