2019年7月30日火曜日

スポーツ科学のエビデンスを根源的に失った「昭和の野球」の欺瞞性


春の「センバツ」、夏の「甲子園」の本選球場として知られる阪神甲子園球場(ウィキ)

1  極端な体育会系精神主義に収斂される「御意見番」張本勲 ―― 「壊れても当然」と言い放つ男の愚昧の極致





「確証バイアス」・「サンプリング バイアス」等々の複数の理由で、TBSの「サンデーモーニング」には、どうしても馴染(なじ)めないが、言論の自由だから見なければいいだけの話。

「サンデーモーニング」より
「張本勲の喝!」

しかし、Yahooニュースで入ってくる「張本勲の喝!」のコーナーだけは、どうしても看過できなかった。

この男は、「ジャイアンツの独走」と言い切った翌週に、それと真逆の情報を、恬(てん)として恥じない口調で発信する。

DNAと広島の連勝という結果を見てから発信するから、かてて加えて、性質(たち)が悪いのだ。

一週間のゲームの結果を見て発信する「御意見番」とは、一体、何者なのか。

このレベルの矛盾なら、いつもの調子なので、聞き流せばいいのだが、しかし、2019年7月28日での「解説」には、開いた口が塞(ふさ)がらない。

人口に膾炙(かいしゃ)しているので詳細は省略するが、大船渡の国保陽平(こくぼようへい)監督が佐々木朗希(ろうき)投手を温存したことで、その起用の是非を巡って世論が沸騰した。

佐々木朗希投手
国保陽平監督https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/201907250001248.html

以下、「御意見番」持論。

「私は残念で仕方ありませんよ!夏は一回勝負だから99%投げさせなきゃダメでしょう。

一生に一回の勝負でね。色々、言い訳はありますけど、投げさせなきゃ。その前の(準決勝で)129球?それがどうした。歴史の大投手たちは皆、投げてますよ。勝負は勝たなきゃダメなんだから。投げさせなきゃいいという人は野球を知らない人だし、自分はよく思われようと言っている人なんだよ。壊れても当然、ケガをするのはスポーツ選手の宿命だもの。痛くても投げさせるくらいの監督じゃないとダメだよ。将来、将来って、将来は誰が保障するの?球界のって誰が決めたの?」

更に、畳み掛けていく「御意見番」。

「張本勲の喝!」

「あの苦しいところで投げさせたら、将来、本人のプラスになるんですよ。選手はそれを乗り越えて、人並み優れたピッチャーにならなきゃ。彼が投げても負けたかもしれないよ。それでも彼に試練を与えることが、野球を辞めても、彼の人生のプラスになるじゃないの。人生の90%は苦しいことのほうが多いじゃない。あのときの苦しみを考えれば、こんな苦しみ、屁でもないというような気持にもなるんですよ。どんなであっても、彼には出してほしかった」(参考記事・「週刊文春」)

以上、「御意見番」張本勲の持論が、極端な体育会系精神主義の一語に収斂されるもので、この男に、プロ野球の指導者のオファーがなかったこと(?)を、大いに欣喜(きんき)せねばならないだろう。

それにしても、「壊れても当然、ケガをするのはスポーツ選手の宿命だもの」と言い放った、この愚昧(ぐまい)な男の暴言に、絶句した。

「壊れても当然」と言い放つ男の、その人格総体を貫流する極端な体育会系精神主義。

そのアナクロな発想の風景に張り付く、「昔は良かった」という文脈の表層に、検証困難な情報が群れを成し、そこから、「歴史の大投手たちは皆、投げてますよ」という言辞が暴走する。

「だから、歴史の大投手たちは短命だった」

「権藤・権藤・雨・権藤」と称された、「地獄の連投」の惨鼻(さんび)に象徴されるように、この類(たぐい)の重要な事実が、この男の脳から、そっくり剥落(はくらく)しているのだ。

以下、愚昧なこの男の、「昔は良かった」論や、極端な体育会系精神主義に異論を呈したい。
矛盾だらけの「御意見番」張本勲https://www.excite.co.jp/news/article/Jprime_15094/





2  スポーツ科学のエビデンスを根源的に失った「昭和の野球」の欺瞞性





私の持論は、ブログを通して繰り返し言及しているので、ここでは、拙稿・スポーツの風景「『高校野球の悪』 ―― 『タブー』に挑む筒香嘉智の正義の炸裂」から、テーマと共通する部分を切り取り、再構成しながら引用する。

プロ・アマを問わず、一般的に言えば、「体育会系原理主義」の中枢に居坐る上下関係(権力構造)は、精神主義に補填された「監督への絶対的服従」を基盤としている。

組織内の権力関係の力学は、「まだ、投げられるか?」という監督の擦(す)り寄りが、「命令」である事実を了承しているので、選手・投手の理性的自我に、「無理です」という反応は、選択肢として封印されているのが常道である。

悲しいかな、アマチュア野球の要諦(ようてい)には、精神主義の価値と、最新のスポーツ科学のリザルト(成果)が共存されていないのだ。

「『昭和の野球VS平成の野球』だった平成最後の甲子園決勝」

この見出しで、大阪桐蔭と金足農業の決勝を、「平成最後の甲子園決勝」と書いたのは「スポニチアネックス」。

「平成最後の甲子園・決勝」
「昭和の野球」を復元させた金足農業

この卓抜なネーミングをしたのは、春と夏の3大会連続出場を果たし、1969年夏の決勝で、青森県立三沢高等学校(戦後初の東北勢の決勝進出)のエースとして、愛媛県立松山商業高等学校と延長18回の結果、0-0の引き分けとなった翌日の再試合も、一人で投げ抜いた太田幸司(現・日本女子プロ野球機構スーパーバイザー)。

慨嘆(がいたん)に堪(た)えないのは、この日だけで262球を投げ抜いたこと。(因みに、松山商のエース・井上明も、一人で232球を投げ抜いている)

更に、私が大いに違和感を覚えるのは、準々決勝から連続45イニングを1人で投げ抜き、準優勝に終わった太田幸司の「熱投」を、「高校野球名勝負」として、数多(あまた)のオールドファンが、「非商業」的な「アマチュア野球」の真髄(しんずい)の極点として受け入れていること。

太田幸司の熱投!史上初の決勝引き分け再試合

「元祖・甲子園」の究極のアイドルとして、女性ファンから追いかけ回された太田幸司のプロ野球での成績が、58勝85敗という平凡な数字の原因を、2日続きの連投を余儀なくされた「酷使病」の結果であると、一概に決めつけられないのも事実。

その太田幸司によると、「非商業」的な「アマチュア野球」の真髄の極点を表現した、「昭和の野球」のフィーチャー(特質)が、「バント多用・全員地元の9人野球・一人のエース」という命題であるが故に、「深紅の大優勝旗」が授与されたのが大阪桐蔭であるにも拘らず、「金足農業」という「物語」が、失いつつある「レトロ野球」への賛歌となったのだ。

太田幸司・2014年4月3日・ わかさスタジアム京都にて(ウィキ)

「非商業」的な「アマチュア野球」の真髄は、実は、プロ野球(日本野球機構=NPB)の世界でも踏襲されていた。

元々、プロ野球は、「学生野球基準要綱」を作成した「学生野球の父」・飛田穂洲(とびたすいしゅう)の極端な精神主義的教育に端を発し、アマチュア野球界に決定的な影響を与えたという歴史を有する。

この国で、スポーツが普及していくベースには、武士道的な徳育主義を重視した、一高的野球観(一高は、現在の東京大学教養学部)が濃密に含まれていた。

これが、大学野球に進化を遂げていっても、「武士道的な理念」が温存されていった流れは、飛田穂洲の「精神野球論」によって裏付けられている。  

飛田穂洲

―― 以下、「精神野球論」を説く飛田穂洲の、「武士道的な理念」が凝縮された断片的な文面を紹介する。

「学生野球の父」・飛田穂洲は、水戸中(現水戸一)-早大を経て、早大野球部の初代専任コーチとして黄金時代を築いた。野球を通じた人格形成や精神修養を重んじ「学生野球の父」と呼ばれる。「一球入魂」という名文句を残した。60年に野球殿堂入り。65年に78歳で亡くなった

「ベースボールを遊戯視した時代もあり、現在でも娯楽的に取り扱うものもあろう。野球の面白さ、それを一種の球遊びと考えるものがありとしても強いて異論をとなうる必要はないかも知れない。しかし吾々がしっかり抱いて来た真の野球というものは決して娯楽的に空虚な球遊びではない。

(略)今日われらがいうところの野球には、精神がなくてはならぬ。ことに学生野球というものにあっては、厳然たる精神を持たなければ存在の意義を為さない。わずかに娯楽的のものに過ぎなければ、多額の費用を投じて野球部を支持するなどは、学校本来の目的上許すべくもないことである。

(略)野球が好きだからやる、あえて苦痛を忍んでまでやる必要があるか、こうした事を考えるものがあれば直ちに野球部から追い出さねばならぬ。

(略)学生野球は遊戯ではない。遊戯でない野球には堅苦しい約束があり、修行者はその約束を守って野球部のため粉骨砕身せねばならない。部長の命ずるままコーチの命ずるまま先輩の命ずるままに従ってグラウンドを馳駆(ちく)しなければならぬ。各野球部にはそれぞれ野球部としての伝統があり、確立したる野球部精神がある。

(略)・・・精神団体として集まった野球部というものは、自然堅い約束がとりかわされ、すべてチームの指示するところによって行動しなくてはならない」(「飛田穂洲選集 野球読本 第四巻「精神野球」ベースボールマガジン社刊より ―― 昭和10年、「スポーツ良書刊行会」より「中等野球読本」として刊行された/筆者段落構成)  

「精神野球論」が集約されている飛田穂洲の著書

「野球は修行者」の世界であって、「野球が好きだからやる」者は、「直ちに野球部から追い出さねばならぬ」とまで書き切った、飛田穂洲の「精神野球論」の本質が、「体育会系原理主義」の行動体系とトレースするのは否定しがたい。

飛田穂洲の一連の言辞に驚き、呆れ果てるが、我が国の「野球史」に刻まれた、正真正銘の事実なのだ。

しかし、私たちは、飛田穂洲の「精神野球論」が、プロ野球にも相当程度の影響を与えていた事実を知らねばならないだろう。

明治40年の早大野球部・新人時代の飛田穂洲(右端)

「権藤・権藤・雨・権藤」と称された、「地獄の連投」の事実は、あまりに有名だが、正確なフレーズを書けば、「権藤・権藤・雨・権藤・雨・雨・権藤・雨・権藤」である。

権藤博・あまりに短い「全盛期」は球史に残る

大魔神・佐々木主浩(かづひろ)を得て、横浜ベイスターズを、38年ぶりのリーグ優勝と日本一に導いた権藤博の、現役時代の「酷使病」を被弾した典型例として、今でも使われている投手起用の悪しき現実を検証する。

それは、本格派の投手をダメにするには、2、3年あれば充分であることを揶揄するものだった。

雨天日と登板試合が交互になるほど酷使され続けた、中日の新人投手・権藤博の「地獄の連投」の破壊力は、当時の流行語にもなった。

権藤博・来る日も、来る日もマウンドに立ち続ける。「権藤、権藤、雨、権藤・・・」は流行語にもなった

130試合の半分以上の69試合に登板して、35勝19敗の並外れた成績を残し、翌年も、30勝17敗の途轍(とてつ)もない数字を「置き土産」にして、2年連続最多勝に輝いたが、残念ながら、この2年間が新人投手・権藤博の全てだった。

当然、球威が落ちて打者に転向後、投手に再転向するが頓挫し、実質7年間で現役引退に至る。

これが、「沢村に一番近い剛球投手」と評されていた男の野球人生の、その現役時代の驚嘆すべき内実だった。

「酷使病」を被弾したか否かについて、「ダウンサイドリスク」(資産のダメージの度合い)が読み辛い太田幸司と比較すると、権藤博の「酷使病」だけは認知せざるを得ないのだ。

この「地獄の連投」の惨鼻(さんび)のルーツの一つが、飛田穂洲の「精神野球論」にある現実を否定できるだろうか。

「体育会系原理主義」の行動体系が昇華されつつあるプロ野球の歴史を思うとき、まさに、このような極端な行動体系の典型的な事例こそ、権藤博だったのだ。

権藤博・中日コーチ時代 (2012年8月28日、こまちスタジアム)(ウィキ)

そこに、果たして、「昭和レトロ」の「故郷感」の芳香を嗅ぐことができるか。

主催者の新聞社などのメディアが過剰に垂れ流す「情緒の共有」には、スポーツ科学のエビデンスを根源的に失った「昭和の野球」の欺瞞性だけが宙を舞っている。
横浜ベイスターズ・38年ぶりのリーグ優勝





3  「SPORTSデモクラシー」 ―― 知の融合が進み、合理的で民主的な仕組みが生み出されていく「スポーツ文化」を構築する





以下、「アメリカンフットボール日本代表」の主将であり、法政大学オレンジ総監督で、根っからのスポーツマンである、株式会社ドームのCEO(最高経営責任者)・安田秀一(しゅういち・敬称略)の提言を傾聴したい。

そのタイトルは、「金足農の準優勝は美談ではない 選手守れぬ残酷な戦い」。

安田秀一は語っていく。

五輪後の「新国立」に、観客動員300万人の読売ジャイアンツの誘致を考案した、ドームの安田秀一社長

「今夏の甲子園の高校野球は秋田の公立校である金足農業高校の快進撃で盛り上がりました。決勝は圧倒的な戦力を誇る大阪桐蔭に2―13で屈しました。判官びいきの日本人は大半が金足農を応援していたようです。ただ、僕には金足農を応援している人も、今の高校野球のあり方に肯定的な人も、潜在する意識として『残酷さを楽しんでいる』ように感じています。選手の集め方も、練習施設も、バックアップ体制も、両校はまったく違います。ハンディを持つ側が勝利する番狂わせを面白いという気持ちは分かりますが、僕はこうした残酷なゲームを楽しむ気持ちにはなれません」

更に、語っていく。

金足農の準優勝は美談ではない。選手守れぬ残酷な戦い

「例えば金足農のエース、吉田輝星投手は秋田県大会から一人で投げ抜き、甲子園でも準決勝までの5試合を完投。決勝は途中降板しましたが、体力の限界、身体の酷使は誰の目にも明らかでした。熱中症や肩やひじへの負担によるけがといった医学的リスクを、吉田投手本人がどれだけ知っていたでしょうか。おそらく、具体的な知識もなく、投げることに夢中になっていたのでしょう。

僕には甲子園球場が、残酷な戦いを人々が楽しむ、ローマ時代のコロッセオのように感じられました。とても先進国の健全なスポーツには思えません。高校野球のフォーマットを規定している日本高等学校野球連盟(高野連)が、選手に何かあったときに責任を取れるとも思えません。学校の校長先生や監督ばかりが責任を追及され、何より、大事な学生の安全という根本問題の解決には至らないことは容易に想像できます」

「甲子園の夏」を「残酷な戦いを人々が楽しむ、ローマ時代のコロッセオ」と言い切った安田秀一の確信的言辞は、後述するが、「高校野球の悪」と言い切って、「タブー」に挑む筒香嘉智の正義の炸裂と全く同じ文脈である。

コロッセオは、ローマ帝国の各地に作られた「円形闘技場」で、剣闘士同士・剣闘士と猛獣との戦いが繰り広げられ、それを見るのは民衆の楽しみだった

安田秀一の提言に、私は全面的に支持する。

ここで、安田秀一は、「公平さ」と「平等」の違いを履(は)き違えている日本人のスポーツ観を批判する。

「欧米のスポーツ先進国では、条件を同じにして戦うことがフェアと考えます。ところが、日本では与えられた条件が違っていても、平等に参加できることがフェアだと考えがちです。結果、『誰もが日本一を目指す』という仕組みでの活動を強いられます。中央集権の国らしく、選択肢がないのです。

 Equalityが「平等」で、Equityが「公正」https://togetter.com/li/934412

(略)フェアな戦いとは何か。スポーツ推薦がある学校での日本一、ない学校での日本一、受験を優先する学校同士が週3日の練習で、地域での優勝を競うなど、その気にさえなれば条件をそろえることはさほど難しいとは思えません。

(略)人格形成の過程において『何がフェアなのか?』ということを正しく学ぶことは民主国家において、大変重要なポイントだと思います。ましてや、環境が不利な学生を判官びいきの世論によって、さらに危険な状態に追い込むことなど絶対にあってはならないでしょう」

欧米のスポーツ先進国で構築されている「公平な競争条件」、即ち、「イコールフッティング」を揃えることが「フェア」の本質であるが、我が国の場合、「イコールフッティング」よりも、何でも「平等」に参加できることが「フェア」だと考えるので、むしろ、与えられた条件が違っている方を好むから、「甲子園の夏」を沸かせた金足農の「昭和の野球」を称え続けたのである。

金足農の「昭和の野球」は、「イコールフッティング」(「公平性」)を軽視する発想である

「イコールフッティング」の視座で言えば、「セルフ・ハンディキャッピング理論」は相当の説得力がある。

失敗しても自尊感情(自己肯定感)が傷つくことを避けるために、「競争条件が不公平だから負けた」・「初めからハンディがあったから、負けても仕方がない」などと言って、自我が予防線を張るという心理学の重要な概念であるが、ここで思うに、「昭和の野球」の実践に集約される、敢えてハンディを引き受けたかのような金足農の「致命的負荷」が、「約束された惨敗」を必然化したのである。

「セルフ・ハンディキャッピング理論」に依拠した、金足農の「約束された惨敗」を見届け、「甲子園の夏」を謳歌する熱狂的ファンは「残酷さを楽しんでい」たのだ。

「セルフ・ハンディキャッピング理論」

このことを想うとき、私は、「散りゆく者への賛歌」という一級の「感情報酬」を、観客やテレビ視聴者に対し、「コト売り」(「モノ売り」ではなく、「文化」を売る)という付加価値をつけて売り抜く朝日新聞社と、信じがたいほど、軽薄で能天気な、公益財団法人・高野連に対して無性に腹が立つ。

―― 以下、安田秀一の提言の最後の括り。

「戦後70年を過ぎ、地球規模で生活環境は大きく変わっています。当時つくった仕組みが、現代社会とマッチしていることの方が珍しいと考えるべきでしょう。これからも、勇気を持った発言や行動が少しずつ増えていく、発想や仕組みをより現代的に、民主的な環境に変えていこうとするエネルギーがふつふつと湧き上がってくるでしょう。

何より大切なもの、それは正しい知識と情報、学ぼうとする姿勢です。自分の知識経験を振りかざす旧世代に対して、今の若者たちはすぐに検索して正しい情報を集めることができます。このコラムも、そんな検索の受け皿となり、考える材料の一助になればうれしく思います。知の融合が進み、よりよい仕組み、合理的で民主的な仕組みが生み出されていく。そんな『SPORTSデモクラシー』が進むことを願っています」(筆者段落構成)

以上の、分かりやすいが、根源的なメッセージに加える一文もない。
安田秀一





4  「野球医学」の視座で、「投球障害リスク」を考察する





2018年12月下旬のこと。

新潟県高野連が投じた一石が、高校野球に波紋を呼んでいる。

1人の投手が1試合で投げられる球数を、100球に制限すると発表したからだ。

極めて高い確率で、高野連は否定的であると思われる。

もし、高野連にその気があったなら、疾(と)うに実現できたからである。

2019年の春季新潟県大会で、「球数制限」を導入する新潟県高野連
「球数制限」実施について話す、新潟県高野連の杵鞭(きねむち)専務理事(左)と、富樫(とがし )会長

僅か一握りだが、プロを目指すだろう選ばれし高校生を、「酷使病」に起因する故障から守るために、「甲子園の夏」を主催する高野連・朝日新聞社は、口先で「理念」を主唱するが、実質的な改革に真剣に取り組まず、殆ど無為な時間を累加させてきてしまった。

安田秀一の言葉を借りれば、「戦後70年を過ぎ、地球規模で生活環境は大きく変わっています。当時つくった仕組みが、現代社会とマッチしていることの方が珍しいと考えるべき」である。

それにも拘らず、「人類の創造的な文化活動の一つである競技スポーツ」(文部科学省)が、激流の時代の変化がマキシマムに達しても、我が国の「スポーツ文化」の代表格・「甲子園の夏」だけは、「昭和レトロ」の「故郷感」の芳香を放っている。

この一点だけを大写しすれば、朝日と産経は対立する「イデオロギー」を超えて睦み合い、「昭和の野球」が内包する「酷使病」の陰惨な破壊力を無視し、思いを込めた「肯定的ストローク」を架橋せずに、「我関せず」という軽走感を、呆れるほどに繋ぐのだ。

“プロ部活”のための夏の甲子園──ますます空洞化する「教育の一環」

「スポーツ文化」の進化に関わる、コミュニケーションの致命的欠如。

この厄介な現実に、大手メディアの合理的思考がアウトリーチ(手を差しのべること)できない風景に張り付くのは、「昭和レトロ」への深い愛着心のみ。

これが、我が国の、国技にも似たスポーツとの、異様なまでの近接感覚なのである。

「昭和レトロ」への深い愛着心で、「酷使病」の現実を無視されたばかりか、絶賛された吉田投手

先の新潟県高野連による提案の根柢にあるのは、「投球障害の予防」という問題意識である。 日経デジタルの、「100球制限の是非は?・新潟県高野連が投じた一石」によると、筑波大学の元硬式野球部部長で、「野球医学」を専門とする馬見塚尚孝(まみづかなおたか)さんは、高校生を故障から守るため、「よき指導要領とそれを学ぶ仕組み」の導入を提唱する。

「近年、野球障害を予防し、パフォーマンスを高め、よき人材育成につながるサイエンスがどんどん進歩しています。試合での投球数制限以外にも、『投球障害リスクのペンタゴン(後述)』をはじめとする障害予防と、パフォーマンスの両立法などの知識を含んだ指導要領を野球の連盟が作成し、その指導要領を指導者や選手、保護者が学ぶ仕組みも早期に考える必要があると思います」

馬見塚尚孝さんの言葉である。

体に負担のかからない投球動作を指導する馬見塚尚孝・西別府病院の野球医学科長

「確かに、短期的にはルール化したほうが早く選手を守れますので、その場合は、試合での投球数と投球障害発症の関係を調査して、エビデンスの質をあげたいところです。ほかにも、甲子園大会や地方大会での投手の投球数と、その後の投球障害発症率調査や、甲子園に導入された『トラックマン』という動作分析システムなどを用いて、投球に伴う『疲労』を調べるのもよいでしょう。このような調査を行うことによって、より質の高い『根拠』が示せるのだと考えます」

これも、馬見塚尚孝さんの説得力あるブリーフィングである。

「投球障害リスクのペンタゴン」。

馬見塚尚孝さんが命名した独特なフレーズの意味は、以下の5つの要因を考慮しなければならないとのこと。

それぞれ説明していく。

体に負担のかからない投球動作を指導する馬見塚尚孝・西別府病院の野球医学科長

1 個体差 180センチの選手と150センチの選手、骨の未熟な前思春期の選手と成長の終了した選手、柔軟性の高い選手と低い選手、既往歴のある選手とない選手では、同じ100球の投球でも肩や肘への影響にも差が出ます。この個体差を評価する方法として、成長速度曲線の作成をはじめとする個人の評価を行い、それぞれにトレーニング法を設定するのがよいでしょう。

2 投球動作 これはフォームのことですが、特に肩、肘に負担が大きいコッキングフェーズ(グラブから球が離れ、踏み込んだ足が完全に接地するまで)での投球腕の動かし方や体幹との関係などによって、負担が異なります。けがをしにくいフォームと、けがをしやすいフォームがあるということです。この投球動作を改善させるためには、「運動学習」という理論で、「理想とする運動技術の把握」・「真似(まね)ぶ」・「コツやカンを習う」・「量質転化」というステップを踏む必要がありますので、投球数を減らすという考えだけではリスクは減りません。

3 コンディショニング 疲労度や睡眠状態、栄養状態、柔軟性の状態など内的なコンディショニングに加え、気象条件やマウンドの状況などの外的なコンディショニングも考慮する必要があり、疲労した状態での投球は100球未満でもリスク要因となります。

4 投球強度 投球数を50球以内と制限しているにもかかわらず、肩や肘を痛めて、選手がやってきます。多くの選手に共通しているのは「球数を減らす分、なるべく全力で投げている」ということです。工学分野では疲労を証明する「S-N曲線」という専門用語がありますが、これは投球数と投球強度の関係を説明するのに有効です。数は必ず強さを考慮しなければならないことを示しています。最近の大リーグの研究でも、球速が速い選手ほど手術に至っていることが示されています。全力での遠投なども、選手の成熟度などを考慮して許容しなければなりません。

5 投球数 投球制限をすれば故障予防に有効な一方、外来には投球数を制限しているにもかかわらず、肩や肘を壊して選手がきます。これは前述の投球強度や投球動作、コンディショニングの影響を考慮しなければならないことを示しています。実際の指導では、投球数を増やすために投球強度を落としてもらうことや、コンディショニングがよい状態で行うことなど、ほかの4つの要素のバランスを考えることを選手に伝えています。

なお、「投球障害リスクのペンタゴン」を具体的に図で示すと、以下のようになる。

図1)投球障害のペンタゴン 実例1

【図1の解説 高校生投手の動作習得期にペンタゴンを説明した一例。

この投手は投球動作に課題があり(40点)、技術力向上のため多くの投球数(100点)を必要とすることが見込まれた。このため投球強度を低めに設定し(60点)、コンディショニングもあまり疲労のない程度に設定した(60点)。短期的には個体差は変わらない(80点)とした。

次に投球動作が改善してきたため(60点)、実戦練習を行うことにした(実戦練習期)。実戦では投球数を減らし(80点)、投球強度を上げ(80点)、試合が近いためコンディショニングもやや悪化したと考える(80点)。さらに実際の試合では(試合期)、全力投球も必要となるため(100点)、投球数を減らし(60点)、コンディショニングも改善し(60点)、さらに投球動作は改善していると指導した(80点)】

図2)投球障害のペンタゴン 長期選手育成

【図2の解説 小学生投手から高校生投手までの長期選手育成をペンタゴンで考えてみる。前思春期とは第2次性徴がまだ始まっていない段階で、肘には軟骨が多く故障しやすい。このため5つの要素をすべて40点と設定。これが思春期に入ると肘の成熟もかなり進み、投球動作も上手になり、投球数や投球強度、コンディショニングのレベルもやや上げられる。さらに成熟して成人期になると、肘の成長軟骨も消失して大人の肘になり、すべての項目の点数を上げられるようになる】

「こうしたレーダーチャートを選手自身がつくることによって、選手は必要な知識を得ることが求められる。自己決定することで内発的動機づけも高まり、パフォーマンスとリスクの両立を学ぶことができるようになる」

馬見塚さんのブリーフィングである。

馬見塚医師が別府市に、自著「野球医学」を寄贈

結局、投球制限だけでは誤解を生みかねない。普段から投球練習を制限し、試合で疲労から投球フォームの肘が下がり始めているのに、100球に達していないからと、監督も選手も問題ないと勘違いしたら、どうなるか。

某高校の野球部部長は、以下のような言葉を添えた。

「100球制限がルール化されたら、100球までの過程を考え、その日どうやって100球に到達したのか、どうすればもっと効率的だったかを(選手は)考えるようになると思います。残りのスタミナをどう使うか、どのくらい力を入れて投げるか。時間や数が無制限だと、逆に考えるスピードが速くならないかなとも思うんです。相手打線、天候、球場、その日の自分、いろんなことを加味して100球をイメージするはずです。

(略)企業に当てはめれば、結局、何かしらの締め切りにより動き、その時間内で最高のパフォーマンスを出さないといけない。その力は生徒には必要だと思います」

生徒は、そこから学ぶこともあるということだが、もちろん、今回の投球制限はそれを意図したものではない。

ルール化の前に一度、状況を整理する必要がある。

それを促すことになるなら、新潟県高校野球連盟が一石を投じたことは、大きな意味を持つのではないか。

変化に対して、私たちは、いつまでも優柔不断であってはならない。

「変わるべきとき・変えるべきとき」は、逡巡(しゅんじゅん)せずに変わっていかねばならないのだ。
2015年度の優秀選手表彰式を行った新潟県高野連
平成30年度・学生野球選手及び部員表彰の表彰式を行う新潟県高野連
新潟県高野連・新潟日報は22日の電子版で、「故障予防や選手の出場機会増などが目的」と伝えている





5  「高校野球の悪」 ―― 「タブー」に挑む筒香嘉智の正義の炸裂






「WBCの球数制限は、普通に考えればプロ野球選手、大人が球数制限で守られているという中で、子供たちが球数制限、子供たちが守られてないというのは、これはおかしい話だと僕は思いました。球数制限をやって、僕自身、試合する中での違和感というか、そういうものはありませんでした。

(略)プロの世界ではファンの方があってのプロ野球選手だと僕は思っていますし、そこに試合を見に来る、料金が発生するのは当然のことだと思いますが、高校野球で言うと、高校の部活に大きなお金が動いたり、教育の場と言いながらドラマのようなことを作るようなこともあります。新聞社が高校野球を取材していますので、子供たちにとって良くないと思っている方はたくさんいると思いますが、なかなか高校野球の悪というか、全てを否定しているわけではありませんが、子供たちのためになっていないという思いを、なかなか伝え切れていないのが現状かなと思っています。

(略)将来がある子供たちを守るには、一発勝負のトーナメント制をやめ、リーグ制を導入したり、ルールで、球数制限や練習時間を決めるなどする必要があると思っています。指導者の方は、良かれとやって、うまくなってほしいと思ってやっていることだと思いますけど、子供たちを見守る、いい距離感で子供たちに指導する、長時間練習、罵声(ばせい)、暴力、そういうのをなくす、指導者の方の頭の中が常にアップデートされ、時代に比例した野球指導を行っていく必要があると思います」

高校の部活への批判と、「高校野球の悪」という言葉まで表現されるに及んで、正直、驚かされた。

筒香嘉智「日本球界は時代の変化に取り残されている」
筒香嘉智を孤立させてはいけない。野球界の歩みを進めるためには、声をあげる選手が必要だ


「ルールを決めて、まずは子供たちを守る」

この一点に凝縮された筒香のスピーチは、誰が聞いても理解できる「ストローク」(「他者への自己表現」・「他者との存在認知」)だったと言える。

「筒香会見」には、「自分が見たものが全て」という、視界限定の狭隘さの感を否めない印象を受けなくもないが、それでも、スポーツ科学の専門家の協力を得て、データの一部を提示して、高い問題意識を継続的に抱懐(ほうかい)した者の熱意が、余すところなく開陳(かいちん)されていた。

ここで問題になるのは、一発勝負のトーナメント制を継続するが故の、アマチュア野球での「勝利至上主義」。

この「勝利至上主義」が、アップデートされていない野球指導者たちによる、長時間練習・罵声・暴力を生む構造になっていること。


アマチュア野球の指導方法について語る筒香嘉智

リーグ制のプロ野球の「勝利至上主義」が、金銭を払って球場に来る観客への最低限のレスポンスであり、且つ、ゴールに向かって進んでいく組織の結束力としての、「チームビルディング」を構築する「職業意識」のリアリティの体現であるが故に、プロフェッショナルとしてのチームメイトとの競争を経て、真剣にプレーするアスリートの集中的表現の結晶点が、「勝利」に対する強い拘泥の必然的な帰結である。

だから、何の問題もない。

然るに、アマチュア野球での「勝利至上主義」は、スーパーバイザー(指導者)が仕切る「支配と服従」という、絶対的な関係構造の中で、子供たちの自主性の芽を摘む危うさそれ自身が内包する問題である。

「指導者」が甲子園という頂点を目指し、子供たちのプライバシーを管理し、その協力を子供たちの母親に対して、それが「少年野球の常識」であるかのように求めるのだ。

それ故、アマチュア野球の「勝利至上主義」が、高校野球に集中的に体現されていること。

それが「諸悪の元凶」となる。

今年も野球体験会を通じて子供たちと交流した筒香嘉智選手https://news.yahoo.co.jp/byline/kikuchiyoshitaka/20190115-00111234/

筒香は「甲子園の野球」を明瞭に批判したが、私がよく使う、「体育会系原理主義」という、ネガティブ含みの強い言辞こそが、問題の本質なのである。

アマチュア野球の「勝利至上主義」を支える、極端な「精神主義」=「体育会系原理主義」の本質は、詳細は言及しないが、「純粋・連帯・服従」という三命題に凝縮されると、私は考えている。

「子供が優先にならないといけないのに、大人が中心になってやってしまっている。(略)大人が守らないと子供の将来はつぶれる」

「高校野球の悪」とまで言い切った、筒香嘉智の勇気と使命感、そして、継続性を有する問題意識の高さ。

深い感銘を覚える。

筒香嘉智 ―― 我が国の「野球」の歴史に風穴を開けた「プロ野球選手」として、語り継がれていくであろう。

「高校野球の悪」・「新聞社主催の問題点」にまで踏み込んだ筒香の勇気

野球界への警鐘を鳴らす筒香嘉智の勇気の発信が、ベースボールの国・アメリカでも話題になっている。

筒香の勇気が、本稿の推進力にもなった。

スポーツ全般に関心を持ちながら、どうしても起筆できなかったのが、我が国の「スポーツ文化」に澱む、「高校野球」に代表される「酷使病」の悪しき実態である。

何度かブログで表現しようとしたが、「書いても意味がない」と勝手に決めつけて、断念した次第である。

そんな折に出現した「筒香会見」。

正直、反復が多い「筒香会見」を繰り返し読み、動画でも確認した。

「これだけは言わねばならない」

感情を抑制しつつも、この覚悟を抱(いだ)いて、自分の思いの丈(たけ)を、熱意を込めて語っていく「筒香会見」には、「野球人口」が減少し続ける因子の一つが、母親をも動員させて指導・管理する、「少年野球」でのスーパーバイザーの「勝利至上主義」と、それに起因する圧力的指導の弊害を誹議(ひぎ)する論調に貫かれていて、激しく心が揺さぶられた。

自らが携わるクラブチームの体験会で、子供たちと触れ合う筒香嘉智選手

話半分に聞いておくというスタンスが正解だろうが、「正義」を「炸裂」させた「筒香会見」が、米国でも話題になり、ニュースバリューとして膨らんだ事実を評価しても、少なくとも、我が国の報道の味気なさを思うとき、残念ながら、自国民に向けた「筒香会見」の影響力は限定的だった。

それでも、「筒香会見」の価値は、決して劣化することがないだろう。

―― 以下、米国で話題になっているという、AP通信(米国の大手通信社)が配信した記事の紹介の断片。(Full-Count編集部=AP)

2018年のMLB(ウィキ)

題して、「DeNA筒香の“野球界への警鐘”会見が米国でも話題『母国の野球を改善』」。

「AP通信は『MLBでのキャリアを始める前に、ツツゴウは母国の野球を改善させることを目指している』と見出しを付け、将来の野球界に向け警鐘を鳴らした筒香を特集。

記事では日本のアマチュア野球界で苛酷な練習、体罰などが問題視されていることをレポート。

筒香が球界の未来に向け記者会見を行った様子を紹介し、『母国での野球界の現状を正常化させるために尽力している』と伝えている。

また、野球指導者の方針、勝利至上主義など様々な問題点を訴えかけたことに言及し、『元レッドソックスの投手であるダイスケ・マツザカは、高校時代にマラソンのように投げ続ける投手としての象徴的存在だった』と、高校時代にPL学園と延長17回の死闘を演じた松坂を例に挙げている。

松坂大輔・高校3年間の公式戦通算成績・59登板・40勝1敗 
「東北高等学校」時代のダルビッシュ有http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=001-20170807-08

高校時代に活躍した選手たちのその後にも注目し、『マツザカに加え、ユウ・ダルビッシュとショウヘイ・オオタニも日本の高校野球のシステムの中で耐え抜いたものの、結果として彼らのプロとしてのキャリアの中で、腕に怪我を負ってしまった』と、メジャーでケガに苦しんだ現状を伝えている」

―― 以上、「高校野球」の「酷使病」の悪しき実態を、ネガティブに紹介するAP通信の記事には、どこまでも、MLBの視座から見る「日本の野球文化の弊害」が語られていて、恥じ入る思いが強いが、不本意ながら、この現実を認知せざるを得ないのである。

だからこそ、我が国のアマチュア野球の改革を主唱する、筒香嘉智の正義の炸裂が歴史的価値を持つ所以となる。
筒香がひとり矢面に立っている





7  「高校野球」の「酷使病」には科学的根拠があるのか





ここで、「高校野球」の「酷使病」には科学的根拠があるのか、という根本的な問題に言及したい。

この問題の因果関係については、実は相当の難題なのだ。

「投手酷使指数」(PAP)という、MLB特有の概念が少なからぬ影響力を有するが、実際のところ、この指数が、どれほどの科学的根拠(エビデンス)に依拠しているか未だ不分明なのである。


現役投手の1年以上を棒に振る事態を必至にする、肘(ひじ)の靱帯断裂(じんたいだんれつ・靱帯は骨と骨を結合し、関節を形成する)に対する、「トミー・ジョン手術(側副靱帯再建術)」に代表される外科的治療の有効性を疑う者ではないが、「これ以外の有効な指標もない」と言われる「投手酷使指数」の数値に対し、アメリカでも評価が分かれているのが現実である。

と言うより、「100球伝説」に科学的な根拠はないのだ。

「腕を振れ」はNGワード(朝日はこういう記事を書きながら、「甲子園の夏」での「酷使病」を改善させていない欺瞞性)

「酷使病」が明らかな権藤博と異なり、PAPの数値が小さくても故障する投手がいて、先の太田幸司の例のように、プロ野球の実績と「酷使病」の因果関係について科学的に説明できないケースがある。

最近の研究では、全力投球をすれば1球でも肩や肘を損傷すると言われる。

これには、登板間隔の問題もあるので、個人差を無視できないのも事実だが、常にギアを上げる「全力投球派」よりも、ギアを上げ過ぎない「制球派」の投手の方が、「酷使病」のリスクが小さいと思われる。

しかし現状では、「これ以外の有効な指標がない」のだ。

従って、MLBの球団がPAPを遵守するアプローチが、どこまでも経験則の範疇を超えないのである。

それにも拘らず、「金足農・吉田輝星投手の玉砕的登板」に典型的に現出しているように、「高校野球」の「酷使病」というテーマに対峙し、真摯にアプローチしていく行為が喫緊(きっきん)の課題であることは言うまでもない。

金足農の優勝条件は吉田輝星だった。 直球にかけた希望と、限界の到来

その意味で、先述した,「野球医学」を専門とする馬見塚尚孝さんが提示した分析的見解が、相当の説得力を有すると思われるのである。





8  「酷使病」を生む、我が国のアマチュア野球の報道の現実





プロ野球リーグの設立から84年の歴史が経つが、野球擁護の論陣を張った読売新聞に対峙し、「野球有害論」を主唱し、野球に対するネガティブ・キャンペーンを繰り広げたのが、朝日新聞(当時の東京朝日新聞)だったという事実を想起するとき、その朝日新聞が、2019年で第101回目となる「夏の甲子園」を、公益財団法人(公益事業は非課税)・日本高野連(日本高等学校野球連盟)と共に主催者となっているのは、充分なアイロニーである。

会見を行った「日本高野連」・八田英二会長(中央)

高視聴率が期待できるので、新聞社が放送業に資本参加する「クロス・オーナーシップ」によって、主要株主の朝日新聞社(約15%)がABCテレビ(朝日放送グループホールディングス)を運営・管理する。

「クロス・オーナーシップ」は、メディアの政治的公平性を規定する「放送法4条」違反であるが、普通に考えれば、都合が悪いことを報じないという〈現在性〉それ自身の問題であると言っていい。

クロス・オーナーシップ

その朝日新聞と、「選抜高校野球」(選抜高等学校野球大会)を主催する毎日新聞だけが、「筒香会見」の翌日(1月26日)の紙面で、「高校野球の悪」という言葉を用いてまで、指導者の「支配・服従」の関係性の在(あ)り方(基本・「権力関係」)を誹議(ひぎ)した、筒香のスピーチの本質を、牽強付会(けんきょうふかい)の説を為すように、巧みに切り取っていた。

「子供の野球環境」に絞って書き、「高校野球」という、特別な意味を持つ言葉を完全に封印したのは朝日新聞。

「『高校野球』での投手の連投にも触れ、『教育の場と言いながらドラマを作る部分もある』と警鐘を鳴らした筒香」

これが毎日新聞の報道だが、「高校野球」に言及したのは、この一文のみ。

リベラル2紙の論法は、クリティカルシンキングで言う、相手(筒香)の主張の中枢を正確に引用しない、典型的な「ストローマン論法」である。

ストローマン論法

下手(へた)を打った感のある2紙の論調は、「高校野球」について言及し、「昨年も球数の問題が出た。本当に子供たちのためになっているのか」と厳しく指摘した日経の鋭い論調と、完全に切れている。

また、「ストローマン論法」に流されることなく、「トーナメント制が肩肘を負傷する元凶と指摘し、高校野球における球数制限の導入を訴えた」と書き切ったのは、「ジャイアンツの機関紙」とまで揶揄される読売新聞グループのスポーツ報知(報知新聞)。

「新聞社が主催しているので、子供たちにとって良くないと思っている方がたくさんいても、なかなか思いを伝えられていないのが現状だと思う」

筒香は、ここまで言い切っていたのだ。

「新聞社」という一語に振れた極めつけの言辞が、朝日新聞と毎日新聞から排除されていたのは、自明の理である。

主催者の朝日新聞が「悪玉」とされるのは、今に始まったことではないが、そんな朝日新聞が、繰り返し、甲子園の状況を疑問視する論調を発しているのは事実である。

東京都中央区築地にある朝日新聞東京本社(ウィキ)

例えば、朝日新聞は、20以上も前に、こんなメッセージを発信している。

「好投手のもとに優勝あり、といわれる。ところが、甲子園で大活躍した投手でありながら、成長期の体に無理を重ねたために、投手生命を縮めた例も少なくない。勝ちたいあまりに、指導者が少年に過酷な練習、連投を強いてはならないはずだ」(朝日新聞1993年8月8日・社説)

全く異論がない。

更に、朝日新聞は、翌年に、ここまで書いているのだ。

甲子園改革・18年3月4日、甲子園球場では、「センバツ」に向けて「タイブレーク制」の練習会が行われ、この節目の大会が、改革路線の分岐点になる可能性があると、朝日系の日刊スポーツは偉そうに書いたが、なぜ、今まで何もしてこなかったのか、まず、それを反省すべき。https://www.nikkansports.com/baseball/column/kunikarakoko/news/201804050000179.html

「後がないトーナメント方式の高校野球では、投手は連投につぐ連投をしいられがちだ。肩やひじが痛んでも、耐えて投げ抜く。ときに悲壮感さえ漂わせる、そんなエースの痛々しい姿を、周辺もたたえるところがあった。

イメージ画像・「今日で野球人生が終わっていいと思って投げた」苦悩を味わわせた大人たち

今大会では、事前に関節機能をチェックしたうえ、試合後に再度、検査をし、重大な障害が見つかると、投球を禁止する。選手の将来のことを考えれば、まだ成長過程にある身体を酷使してよいはずがない。それでも日程が過密すぎるという問題は残るが、十六人野球をぜひ、『ゆとりの甲子園』につなげてほしい」(朝日新聞1994年8月7日・社説)

「ゆとりの甲子園」という言葉は観念的だが、その内実は、「投手は連投につぐ連投をしいられがちだ。肩やひじが痛んでも、耐えて投げ抜く」エースの悲壮感を称える現実を変革することが、「ゆとりの甲子園」を具現することだ、と言い切っているのだ。

まさに、「ゆとりの甲子園」を構築できない「高校野球」への批判的言辞である。

試合後の審判団・対戦両チームによる挨拶風景

「猛暑への対策をはじめ、体への負担が大きい投手を中心とする選手のけが防止の徹底など、大会運営を巡る課題は少なくない。時代に合わせて見直しながら、歩みを進めていきたい」(朝日新聞2018年8月22日・社説)

正直、驚かされた。

しかし、それだけである。

「ゆとりの甲子園」を希求しているにも拘らず、炎天下での「夏の甲子園」の「一方の主催者」=「朝日新聞社」の「甲子園史」には、20年以上経っても変わらない事態を晒しているのだ。

「高校野球ビジネス」で利得を上げる朝日新聞の、この呆れるほどの欺瞞性。

結局、相当程度の問題意識を抱懐しているはずの朝日新聞は、「甲子園改革」を口先だけで主唱するだけで、「改革」の努力をすることなく、現在に至っているのである

情けないかな、これが毎年、「酷使病」を生む、我が国のアマチュア野球の報道の現実なのだ。
夏の甲子園、なぜ“炎天下”の開催にこだわるのか 「言行不一致」主催・朝日の欺瞞





9  「甲子園・命」の世界から、「玉砕戦のナルシシズム」を駆逐せねばならない





7で言及したように、「酷使病」の科学的根拠についての因果関係を特定することの難しさ。

これは認めざるを得ない。

だから、研究者が日々の努力を繋いでいる。

しかし、この現実が示唆するものこそ、殊の外(ことのほか)、枢要(すうよう)なのである。

スポーツ科学とは、スポーツを考察の対象とした学問の総称である
スポーツ立国の実現・文部科学省ホームページ

近年、進化の顕著な「スポーツ科学」・「野球医学」が教えてくれるのは、太田幸司も指摘していたが、「個人差」の問題を軽視できないということだ。

「個人差」があるということは、「甲子園・命」に驀進(ばくしん)する青年期初期のマインドを占有し、「まだ、投げられます」と懇願する、「近未来のエース」の前のめりの情動と、その身体を、「責任ある大人=野球部監督」が如何に管理していくかという、切実な課題を内包する。

「責任ある大人=野球部監督」が、この責務を負うのだ。

生体パスポート・IOC は内部告発をしたステパノワを切り捨てた

例が悪いが、これは、「ドーピングの最終兵器」と言われる、「生体パスポート」(アスリートの身体の変化を継続的にチェックすること)の次元の問題意識を、「責任ある大人=野球部監督」が有することを求められる。

だから、慎重になる。

当然のことである。

この問題意識なくして、監督共々、球児らが、一気呵成(いっきかせい)に、フィールドの「前線」を駆け抜けていく行動体系は、「中二病」(ちゅうにびょう)と変わらない、一種、日本人特有の「玉砕戦のナルシシズム」であると言わざるを得ないのだ。

国保陽平監督

しかし、大船渡の国保陽平監督は、この愚を犯さなかった。

大正解である。

大船渡の国保陽平監督の判断は、間違っていなかった。

むしろ遅すぎた。


「甲子園・命」の世界から、「玉砕戦のナルシシズム」を駆逐せねばならない。

ところが、この程度の問題意識の欠片(かけら)すら持ち得ない、「御意見番」張本勲という厄介な男の内側には、「スポーツ科学」・「野球医学」の基礎知識すら貯留(ちょりゅう)されていないのだろう。

飛田穂洲の著書を読んでいないと思われるから、「日本の野球史」の曲折的展開の、その深層に肉薄する教養もないにも拘らず、「投げさせなきゃいいという人は野球を知らない人」と言ってのけるのだ。

この男の言う「野球」とは、極端な精神主義で「武装」された、単なる「技術論」でしかない。

この男を含めて、「玉砕戦のナルシシズム」に酔う男たちの、その寒々とした風景が、いつまでも続くとは、私にはとうてい思えない。

「御意見番」張本勲

「戦後70年を過ぎ、地球規模で生活環境は大きく変わっています。当時つくった仕組みが、現代社会とマッチしていることの方が珍しいと考えるべきでしょう」

この安田秀一の情報発信こそ、最も価値ある状況分析に昇華している。

私も、諸手(もろて)を挙げて賛同する。


(2019年7月30日)