2019年2月19日火曜日

「高校野球の悪」 ―― 「タブー」に挑む筒香嘉智の正義の炸裂







2019年1月25日。

「公益社団法人日本外国特派員協会」=「外国人記者クラブ」でのこと。

「外国人記者クラブ」とは、マッカーサーの命令一下、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)より認可され、連合国・中立国のメディアのために設立された「プレスクラブ」(「日本外国特派員協会」)である。

リベラル色の強い外国人ジャーナリストが集合する、約350人の会員制クラブである

「日本外国特派員協会」(東京都千代田区)で、記者会見を開いた安田純平さん

ここで、内戦下のシリアで2015年に拘束され、3年4カ月ぶりに解放されたジャーナリスト・安田純平さんの会見が行われたが、その3カ月後に実施された会見主役が筒香嘉智(つつごうよしとも・DeNA)。

言うまでもなく、2017WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で、「侍ジャパン」の不動の4番打者を任された若きスラッガーである。

ところが、球界を代表する若きスラッガーが発信する情報の内実は、予定調和の野球談議の範疇を逸脱していた。

筒香嘉智・「侍ジャパン」の不動の4番打者

―― 以下、ニュース解説サイト・「THE PAGE」(ザ・ページ)の全文をベースに、テーマに沿って、構成的に部分修正しながら、筆者がチョイスしたものである。

「本日は僕自身が感じているスポーツ界、野球界の現状についてもっと良くなるためにはどうしたらいいのかという思いを、皆さんにお伝えできればなと思っていますので、よろしくお願いします」

一貫して穏やかな口調で語る筒香嘉智の、この冒頭の挨拶の中に、「プレスクラブ」での彼の会見の意思が発露されている。

動画で繰り返し確認しても、その問題意識の高さと覚悟が容易に窺える。

「外国人記者クラブ」で会見する筒香嘉智

「野球界でいうと、1つの要因は若い世代に多い勝利至上主義だと僕は思っています。どの年代も選手の子供たち、選手の将来的な活躍よりも今を勝つという、今の結果を重視された勝利至上主義が一番問題あるのではないかなと思っています。日本のプロ野球ではリーグ戦が行われていますが、体のできてない骨格のできてない子供たちの大会のほとんどがトーナメント制で行われています。どうしても、選手の成長よりも今の試合に勝つということが優先されています。指導者の方は勝つために、勝つことが子供にいいことと思って良かれと思ってやっていることが、実はそこに子供たちの負担になっているという現状があると思います」

「体のできてない骨格のできてない子供たち」が、「勝利至上主義」によって過剰な負担をかけている現実を、筒香は指摘し、批判する。

筒香嘉智選手“高校野球の悪”に警鐘「大きなお金が動いたり、ドラマのようなことを作る」

筒香のスピーチは、ここから、一問一答の会見にシフトする。

野球が「スポーツではなく武道のようではないか」と訝(いぶか)る母親の声を聞き、子供たちのトーナメントを見た記者の、「子供たちの母親とは話をするのか」という問いに、大阪府堺市のNPO法人が運営する少年野球チーム、「堺ビッグボーイズ」の出身の筒香が語った内実は、以下の通り。

「堺ビッグボーイズのお母さまから、まずは自分の家のチームに見学に行ったら、あまりにも怖(こわ)過ぎて入部できなかったというお母さんも、多々いました。あとは、周りのチームが練習長過ぎるので子供たちが遊びにも行けない、勉強する時間もない。親もお茶当番もあるので、子供たちとどこかへ出掛けたり、親が、お母さん方が何かしたいことも何もできないという声がありました。

(略)堺ビッグボーイズの今、小学部は、70人ほどいます。年々、入部数が増えているのが現状です。本当に子供たちの将来を考え、野球を楽しませる環境を作れば、野球人口が減っていると言われていますが、野球人口というのは増えていくのかなと思っています」


「WBCの球数制限は、普通に考えればプロ野球選手、大人が球数制限で守られているという中で、子供たちが球数制限、子供たちが守られてないというのは、これはおかしい話だと僕は思いました。球数制限をやって、僕自身、試合する中での違和感というか、そういうものはありませんでした。

(略)プロの世界ではファンの方があってのプロ野球選手だと僕は思っていますし、そこに試合を見に来る、料金が発生するのは当然のことだと思いますが、高校野球で言うと、高校の部活に大きなお金が動いたり、教育の場と言いながらドラマのようなことを作るようなこともあります。新聞社が高校野球を取材していますので、子供たちにとって良くないと思っている方はたくさんいると思いますが、なかなか高校野球の悪というか、全てを否定しているわけではありませんが、子供たちのためになっていないという思いを、なかなか伝え切れていないのが現状かなと思っています」

高校の部活への批判と、「高校野球の悪」という言葉まで表現されるに及んで、正直、驚かされた。

2007年・夏の甲子園開会式・筒香は「高校野球の悪」とまで言い切った(ウィキ)

筒香のスピーチを、更にフォローする。

「年々、全国で野球体験会というのが増えています。野球をやっていない子供たちのところに、野球選手が出向いて体験会を行っています。高野連のほうも今後の野球の普及を挙げており、体験会をするということをおっしゃっていましたが、高校野球部員たちが野球をやっていない子供たちのところに行って、野球の素晴らしさを伝える活動をしていくと思います。そのこと自体はすごく大切なことで悪いことだとは思わないですが、そこで興味を持って野球を始めた子供たちが、そこで体感したことと、実際のチームに入ったときにあまりにもギャップがあるということで、野球をやらないという方も、子供たちも多く聞くので、体験会をすることは素晴らしいですが、チームに入ったときのチームの在り方、環境が問題なのかなと思っています」

筒香は、更に続ける。

「指導者の方は、小学校、中学生でいうと、基本的には平日仕事をして、土日ボランティアで子供たちに指導をされている方が多いと思います。ですので、なかなか仕事のほうも考えないといけない、子供のほうも考えないといけない。勉強する時間も、自身の家庭もあると思うので、なかなかそちらに時間を取れないという現状があると思いますので、近いことでいうと、やはりルールを決めて、まずは子供たちを守ることから始めることが一番じゃないかなと思っています。

(略)将来がある子供たちを守るには、一発勝負のトーナメント制をやめ、リーグ制を導入したり、ルールで、球数制限や練習時間を決めるなどする必要があると思っています。指導者の方は、良かれとやって、うまくなってほしいと思ってやっていることだと思いますけど、子供たちを見守る、いい距離感で子供たちに指導する、長時間練習、罵声(ばせい)、暴力、そういうのをなくす、指導者の方の頭の中が常にアップデートされ、時代に比例した野球指導を行っていく必要があると思います」

今年も野球体験会を通じて子供たちと交流した筒香嘉智選手

繰り返しが多い筒香のスピーチは、堅固に内面化されている彼の主張が、抑制的に抑えつつも、最も伝えたい思いをリピートすることで、感情を込めた表現を外化してしまうからだろう。

「ルールを決めて、まずは子供たちを守る」

この一点に凝縮された筒香のスピーチは、誰が聞いても理解できる「ストローク」だったと言える。

ここで言う「ストローク」とは、カナダ出身の心理学者・エリック・バーンの「交流分析理論」で言えば、「他者への自己表現」・「他者との存在認知」のことである。

「交流分析理論」のエリック・バーン

絶対、「これだけは情報を共有したい」という筒香の熱い思いが、この会見で集中的に言語化されたのだ。

「筒香会見」には、「自分が見たものが全て」という、視界限定の狭隘さの感を否めない印象を受けなくもないが、それでも、スポーツ科学の専門家の協力を得て、データの一部を提示して、高い問題意識を継続的に抱懐(ほうかい)した者の熱意が、余すところなく開陳(かいちん)されていた。

ここで問題になるのは、一発勝負のトーナメント制を継続するが故の、アマチュア野球での「勝利至上主義」

この「勝利至上主義」が、アップデートされていない野球指導者たちによる、長時間練習・罵声・暴力を生む構造になっていること。

リーグ制のプロ野球の「勝利至上主義」が、金銭を払って球場に来る観客への最低限のレスポンスであり、且つ、ゴールに向かって進んでいく組織の結束力としての、「チームビルディング」を構築する「職業意識」のリアリティの体現であるが故に、プロフェッショナルとしてのチームメイトとの競争を経て、真剣にプレーするアスリートの集中的表現の結晶点が、「勝利」に対する強い拘泥の必然的な帰結である

だから、何の問題もない。

日本には、2009年8月に創設された「女子プロ野球」がある。正式には、「一般社団法人・日本女子プロ野球機構」


女子プロ野球

然るに、アマチュア野球での「勝利至上主義」は、スーパーバイザー(指導者)が仕切る「支配と服従」という、絶対的な関係構造の中で、子供たちの自主性の芽を摘む危うさそれ自身が内包する問題である。

少年野球

決して雄弁ではないが、「子供たちの自主性」を奪う「指導」を、看過しがたい問題として繰り返し指摘する、筒香の舌鋒鋭いスピーチに傾聴せざるを得なかった。

指導者の罵声、暴言、子供たちができないことに対して、子供たちができないのは当たり前なのに、子供たちができないことに対して、それにいら立てている、怒っているという現状」を見聞きした筒香スピーチには説得力があり、この〈現在性〉に力点が置かれているように感じられた。

「指導者」が甲子園という頂点を目指し、子供たちのプライバシーを管理し、その協力を子供たちの母親に対して、それが「少年野球の常識」であるかのように求めるのだ。

それ故、アマチュア野球の「勝利至上主義」が、高校野球に集中的に体現されていること。

それが「諸悪の元凶」となる。

春の「センバツ」、夏の「甲子園」の本選球場として知られる阪神甲子園球場(ウィキ)

筒香は「甲子園の野球」を明瞭に批判したが、私がよく使う、「体育会系原理主義」という、ネガティブ含みの強い言辞こそが、問題の本質なのである

アマチュア野球の「勝利至上主義」を支える、極端な「精神主義」=「体育会系原理主義」の本質は、「純粋・連帯・服従」という三命題に凝縮されると、私は考えている。

「子供が優先にならないといけないのに、大人が中心になってやってしまっている。(略)大人が守らないと子供の将来はつぶれる」


深い感銘を覚える。

筒香嘉智 ―― 我が国の「野球」の歴史に風穴を開けた「プロ野球選手」として、語り継がれていくであろう。
「タブー」に挑む男・筒香嘉智





2  「酷使病」を生む、我が国のアマチュア野球報道の論点隠し





日本に野球を伝えた男・ホーレス・ウィルソン

「お雇い外国人」として、米国から来日した英語教師・ホーレス・ウィルソンによって、「打球鬼ごっこ」という名で日本に伝来した「野球」が、大学野球の創成期の歴史と重なりながら全国的に広まり、日本初のプロ野球リーグ・「日本職業野球連盟」が設立(1936年)される。

「打球鬼ごっこ」と称された初期の「野球」

プロ野球リーグの設立から84年の歴史が経つが、野球擁護の論陣を張った読売新聞に対峙し、「野球有害論」を主唱し、野球に対するネガティブ・キャンペーンを繰り広げたのが、朝日新聞(当時の東京朝日新聞)だったという事実を想起するとき、その朝日新聞が、2019年で第101回目となる「夏の甲子園」を、公益財団法人(公益事業は非課税)・日本高野連(日本高等学校野球連盟)と共に主催者となっているのは、充分なアイロニーである。

高視聴率が期待できるので、新聞社が放送業に資本参加する「クロス・オーナーシップ」によって、主要株主の朝日新聞社(約15%)がABCテレビ(朝日放送グループホールディングス)を運営・管理する。

「クロス・オーナーシップ」は、メディアの政治的公平性を規定する「放送法4条」違反であるが、普通に考えれば、都合が悪いことを報じないという〈現在性〉それ自身の問題であると言っていい。

クロス・オーナーシップ

その朝日新聞と、「選抜高校野球」(選抜高等学校野球大会)を主催する毎日新聞だけが、「筒香会見」の翌日(1月26日)の紙面で、「高校野球の悪」という言葉を用いてまで、指導者の「支配・服従」の関係性の在(あ)り方(基本・「権力関係」)を誹議(ひぎ)した、筒香のスピーチの本質を、牽強付会(けんきょうふかい)の説を為すように、巧みに切り取っていた。

2017・選抜高校野球の甲子園で

「子供の野球環境」に絞って書き、「高校野球」という、特別な意味を持つ言葉を完全に封印したのは朝日新聞。

「『高校野球』での投手の連投にも触れ、『教育の場と言いながらドラマを作る部分もある』と警鐘を鳴らした筒香」

これが毎日新聞の報道だが、「高校野球」に言及したのは、この一文のみ。

リベラル2紙の論法は、クリティカルシンキングで言う、相手(筒香)の主張の中枢を正確に引用しない典型的な「ストローマン論法」である。

ストローマン論法

下手(へた)を打った感のある2紙の論調は、「高校野球」について言及し、「昨年も球数の問題が出た。本当に子供たちのためになっているのか」と厳しく指摘した日経の鋭い論調と、完全に切れている。

大手町カンファレンスセンター (左が本社の入る日経ビル)(ウィキ)

また、「ストローマン論法」に流されることなく、「トーナメント制が肩肘を負傷する元凶と指摘し、高校野球における球数制限の導入を訴えた」と書き切ったのは、「ジャイアンツの機関紙」とまで揶揄される読売新聞グループのスポーツ報知(報知新聞)。

「新聞社が主催しているので、子供たちにとって良くないと思っている方がたくさんいても、なかなか思いを伝えられていないのが現状だと思う」

筒香は、ここまで言い切っていたのだ。

「筒香会見」より
筒香のこの発言は、「高校野球」を主催していないスポーツ報知の報道だが、そのスポーツ報知に至ってもなお、「新聞社」・「高校野球」という言葉と、「高校野球の悪」とまで言い切った筒香の「抑制的炸裂」が、ビビッドに伝えられていなかった。

「新聞社」という一語に振れた極めつけの言辞が、朝日新聞と毎日新聞から排除されていたのは、自明の理である。

主催者の朝日新聞が「悪玉」とされるのは、今に始まったことではないが、そんな朝日新聞が、繰り返し、甲子園の状況を疑問視する論調を発しているのは事実である。

東京都中央区築地にある朝日新聞東京本社(ウィキ)

── 以下、「高校野球の呪い「酷使病」──アマチュアスポーツの“素人性”が引き起こした金足農・吉田輝星投手の悲劇」から「孫引き・引用」し、3章以降、そこに私自身の解釈を加えて言及していく)

吉田輝星投手

例えば、朝日新聞は、20以上も前に、こんなメッセージを発信している。

「好投手のもとに優勝あり、といわれる。ところが、甲子園で大活躍した投手でありながら、成長期の体に無理を重ねたために、投手生命を縮めた例も少なくない。勝ちたいあまりに、指導者が少年に過酷な練習、連投を強いてはならないはずだ」(朝日新聞1993年8月8日・社説)

全く異論がない。

更に、朝日新聞は、翌年に、ここまで書いているのだ。

「後がないトーナメント方式の高校野球では、投手は連投につぐ連投をしいられがちだ。肩やひじが痛んでも、耐えて投げ抜く。ときに悲壮感さえ漂わせる、そんなエースの痛々しい姿を、周辺もたたえるところがあった。

今大会では、事前に関節機能をチェックしたうえ、試合後に再度、検査をし、重大な障害が見つかると、投球を禁止する。選手の将来のことを考えれば、まだ成長過程にある身体を酷使してよいはずがない。それでも日程が過密すぎるという問題は残るが、十六人野球をぜひ、『ゆとりの甲子園』につなげてほしい」(朝日新聞1994年8月7日・社説)

「ゆとりの甲子園」という言葉は観念的だが、その内実は、「投手は連投につぐ連投をしいられがちだ。肩やひじが痛んでも、耐えて投げ抜く」エースの悲壮感を称える現実を変革することが、「ゆとりの甲子園」を具現することだ、と言い切っているのだ。

まさに、「ゆとりの甲子園」を構築できない「高校野球」への批判的言辞である。

試合後の審判団・対戦両チームによる挨拶風景・2007年の横浜スタジアム(ウィキ)

そして、僅か半年も前に発信したメッセージは、1993年と同義の文脈であると言っていい。

「猛暑への対策をはじめ、体への負担が大きい投手を中心とする選手のけが防止の徹底など、大会運営を巡る課題は少なくない。時代に合わせて見直しながら、歩みを進めていきたい」(朝日新聞2018年8月22日・社説)

正直、驚かされた。

しかし、それだけである。

「ゆとりの甲子園を希求しているにも拘らず、炎天下での夏の甲子園」の「一方の主催者」=「朝日新聞社」の「甲子園史」には、20年以上経っても変わらない事態を晒しているのだ。

「高校野球ビジネス」で利得を上げる朝日新聞の、この呆れるほどの欺瞞性。

結局、相当程度の問題意識を抱懐しているはずの朝日新聞は、「甲子園改革」口先だけで主唱するだけで、「改革」の努力をすることなく、現在に至っているのである。

情けないかな、これが毎年、「酷使病」を生む、我が国のアマチュア野球の報道の現実なのだ。
夏の甲子園、なぜ“炎天下”の開催にこだわるのか 「言行不一致」主催・朝日の欺瞞
夏の高校野球・ベンチの冷房強化で暑さ対策(毎日新聞)





3  「基本・ビクトリーロード」への「散りゆく者への賛歌」という、一級の「感情報酬」





「秋田大会からひとりでマウンドを守る吉田投手を、他の選手が盛り立てる姿は、目標に向かって、全員が一丸となる高校野球のお手本のようなチームでした」(八田英二・2018年8月21日、甲子園球場にて)

この講評(上に立つ者の批評)は、「学校法人同志社」(同志社幼稚園・同志社小学校・同志社大学・同志社女子大学までの9学校園を擁する学校法人)の理事長・総長であり、高野連会長の八田英二(はったえいじ・敬称略)が、2018年8月21日に、2度目の春夏連覇を目指す大阪桐蔭と、秋田の「県立金足農業」との決勝戦が終わった際に言い放った言葉である

会見を行った「日本高野連」・八田英二会長(中央)
日本高野連・八田英二会長(左)

これが、「良心・徳育・自由」を重んじ、「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ」という建学精神に拠って立ち、カルヴァン主義のクリスチャン・新島襄(にいじまじょう)が創った学び舎(や)で、「同志社精神」を有する学校法人のトップに立つ者(高野連会長)の講評であることを思う時、「秋田大会からひとりでマウンドを守る吉田投手」を絶賛する能天気さに唖然(あぜん)とせざるを得ない。

新島襄

「甲子園改革」の一環として、「複数投手制」を決定したことで、疾(と)うに、ベンチ入り人数を18人に増員してきた経緯を、自ら反故(ほご)にする八田英二の欺瞞性に反吐が出る。

自らが発信した「講評」の矛盾に鈍感な男が「甲子園改革」吐露し、幾らリピートしても、「吉田輝星投手の悲劇」を「吉田輝星投手のヒーロー譚」としか考えない、「甲子園・命」一般国民には「馬の耳に念仏」であるに違いない。

「甲子園改革」が喫緊(きっきん)のテーマであっても、馬耳東風(ばじとうふう)に聞き流す「甲子園・命」の人々は、「甲子園はヒーローを作り出す『聖地』」と信じるが故に、「吉田輝星投手」についての「物語」を愉悦するのだ。


あろうことか、県大会から一人で投げ抜いてきた吉田輝星(よしだこうせい・現在、北海道日本ハムファイターズ所属)は、この決勝戦に至るまで、猛暑の甲子園で749球を投げていて、殆ど限界の様相を呈していた。

アマチュア野球のフィールドにおける「投手の肩の消耗度身体能力の劣化」が、危険水域に達していたのである。

イメージ画像・「今日で野球人生が終わっていいと思って投げた」苦悩を味わわせた大人たち

最終的にプロを目指す青年の夢が、高校野球特有の「酷使病」に罹患(りかん)することで、青年の夢が呆気なく砕かれる危うさ。

まさに、この危うさの片鱗(へんりん)が、平成最後の甲子園の決勝戦で顕在化する

決勝戦の序盤から、プロ顔負けの大阪桐蔭の打撃陣から格好の餌食にされ、易々とKOされる。

金足農エース1517球で力尽く

実は、5回を投げ、12被安打・12失点で降板した吉田輝星に、異変が起きていた。

左の股関節の状態が悪く、途中降板したのも、腰痛の発症が原因だったと言われている。

腰痛の発症は、「投手の肩の消耗度・身体能力の劣化」と大いに関与する。

しかし、イケイケドンドンの空気に呑まれていた金足農業のモメンタム(勢い)は、「一人のエース」の力量に依拠することで、頂点に近接していったから、今更、他の野手を「絶対エース」に「昇格」させる選択肢はなかったのである。

金足農業野球部で選ばれた9人

そんな沸騰(ふっとう)し切った〈状況性〉の渦中で、吉田輝星異変に金足農主将・佐々木大夢(ひろむ)外野手が気づき、5回終了時に、中泉一豊監督に、「もう限界です。やばいと思います」と進言し、吉田降板を訴えたのだ。

「本当はもっと早く代えてあげられたら良かったけど、吉田のチームでしたから」

閉会式後の、中泉一豊監督苦渋のコメントである。

「吉田のチーム」だから、その肝心の吉田輝星を研究して、決勝戦に臨んだ大阪桐蔭の餌食にされても、この監督は、金足農主将から交代を進言されるまで決断できなかったのか。

「吉田のチーム」という非合理の極みで続投させようとしたアマチュア監督
金足農・中泉一豊監督試合後インタビュ----

吉田を右翼へ回し、4選手のポジション変更で選手交代しない「9人野球」は貫いたが、「投手分業制」と逆行する「9人野球」の貫徹に、果たして、どれほどの価値があるのか。

吉田輝星の異常事態を理性的・合理的に考えることなく、「吉田のチーム」という非合理の極みで続投させようとした、一人のアマチュア監督の思考のストラクチャー(構造)の本質は、例えば、「野球は精神主義」と考える星野仙一が、2013年の「楽天初優勝」の際に、160球を投げて敗れた田中将大(まさひろ)を、「胴上げ投手」にさせるために9回のマウンドに送り込んだ采配に凝縮されるように、「体育会系原理主義」であると私は考えている。

因みに、「体育会系原理主義」とは、①上下関係(権力構造) ②共有・分け合い志向 ③精神主義 ④礼儀の重視 ⑤組織依存性という、「体育会系」の行動体系の極端な様態であると、私は考えている

思うに、普通のアスリートは、普通の「体育会系」であると考えているから、何の問題もない。

然るに、星野仙一の「野球」の骨格が、「監督に『すべてお前に任す』と言われたら、自ら求めるように反応する『意気に感ずる若者たち』」なので、その時点で価値を発揮する、「権力構造」の基盤に拠った典型的な精神主義なのだ。

2013年の「楽天初優勝」の際に、160球を投げて敗れた田中将大(まさひろ)を、「胴上げ投手」にさせるために9回のマウンドに送り込んだ

本稿の推進力になった「筒香嘉智の正義」の起点が、前述したように、「中学まで所属していた硬式野球チーム『堺ビッグボーイズ』の取り組みや、オフにドミニカ共和国を訪ねた経験」(朝日新聞デジタル)という貴重な体験を得て、「野球界は、進化するスピードが遅い」(朝日新聞デジタル)という危機意識に達し、普通の「体育会系」のアスリート(筒香)が、それを極論化した「体育会系原理主義」のアマチュア野球のネガティブな心理構造を、根幹から誹議(ひぎ)するに至った経緯を踏まえている。

だから、中泉一豊監督と同様に、星野仙一もまた、「楽天は田中将大のチーム」と考えていたのだろう。

「マウンドは俺の縄張り。死ぬ気の全力投球」と書かれた帽子

この思想は、当然ながら、金足農の9人のナインに洗脳的に伝播されていくので、吉田輝星の帽子に、旧陸軍の「玉砕戦法」を彷彿(ほうふつ)させるかの如く、「死ぬ気の全力投球」と書かれてあっても、全く不思議ではない。

これが、「夏の甲子園」の風景に隠し込まれた、「散りゆく者への賛歌」の美学であると言っていい。

実際、吉田輝星をリリーフした、打川和輝(うちかわかずき・金足農の4番打者)投手が好投したにも拘らず(3回3被安打1失点)、吉田輝星を「玉砕」させたこと。

大阪桐蔭戦で、6回から2番手で登板し、力投する金足農の打川

「吉田のチーム」を貫徹しようとした中泉一豊(なかいずみかずとよ)という、環境土木科の実習助手の教鞭を執る教諭の、驚くべき「アマチュア野球」の「玉砕」的な精神主義は、2018年の「甲子園の夏」にも延長され、木端微塵(こっぱみじん)に打ち砕かれるに至る。

しかし、「玉砕」的な精神主義が打ち砕かれた高校生だからこそ、「昭和の野球」(後述)への原点回帰が沸点に達する。

「金足農の昭和野球 故郷重ねた」。

産経新聞の、この見出しの記事が、我が国の「高校野球ファン」の心情が憑依(ひょうい)し、「情動感染」するのだ。

「超高校級の右腕がいたから強かった。もちろんそうだろう。でも、それだけで勝てるわけではない。金足農ナインは『昭和の野球』にスパイスを効かせ、『自分たちの野球』を最後まで愚直に表現していた。目指すべき野球はいろいろあるが、こういう野球でも、まだ全国の頂点を狙えると分かった。平成最後の甲子園はおもしろかった」(記者コラム・横市 勇)これは、「スポニチアネックス」(後援組織は毎日新聞社)の記事の断片だが、ここでもキーワードは「昭和の野球」。

金足農の「昭和野球」・これは1998年秋田大会決勝の画像

つらつら考えてみるに、「昭和の野球」を具現した金足農の訴求力の高さは、「昭和レトロ」の「故郷」を濃密に印象づけたからだろう。

「感動をありがとう!」

「昭和レトロ」の「故郷」を感受した「高校野球ファン」の心情が、この言い古された言辞に収斂されていくのだ。

それにしても、正直、鳥肌が立つような美辞麗句(びじれいく)を被(かぶ)せた、定番的な歓迎儀式が約束されているから、「玉砕戦法」を求められて、それを自己完結させた金足農に待つの「基本・ビクトリーロード」への「散りゆく者への賛歌」という、一級の「感情報酬」である。

この「感情報酬」こそ、「夏の甲子園」の風景に集合する人々の輪が途切れない、心理学的なランドスケープ(景観の諸要素)が、至極(しごく)、自然裡に作り出したものである。
「夏の甲子園」第99回全国高校野球(毎日新聞)
「夏の甲子園」・2006年8月22日 「ほぼ日刊イトイ新聞」より





4  スポーツ科学のエビデンスを根源的に失った「昭和の野球」の欺瞞性 ―― 「権藤・権藤・雨・権藤」と称された「地獄の連投」の惨鼻





プロ・アマを問わず、一般的に言えば、「体育会系原理主義」の中枢に居坐る上下関係(権力構造)は、精神主義に補填された「監督への絶対的服従」を基盤としている。

組織内の権力関係の力学は、「まだ、投げられるか?」という監督の擦(す)り寄りが、「命令」である事実を了承しているので、選手・投手の理性的自我に、「無理です」という反応は、選択肢として封印されているのが常道である。

悲しいかな、アマチュア野球の要諦(ようてい)には、精神主義の価値と、最新のスポーツ科学のリザルト(成果)が共存されていないのだ。

「『昭和の野球VS平成の野球』だった平成最後の甲子園決勝」

この見出しで、大阪桐蔭と金足農業の決勝を、「平成最後の甲子園決勝」と書いたのは「スポニチアネックス」。

「平成最後の甲子園・決勝」
「昭和の野球」を復元させた金足農業

この卓抜なネーミングをしたのは、春と夏の3大会連続出場を果たし、1969年夏の決勝で、青森県立三沢高等学校(戦後初の東北勢の決勝進出)のエースとして、愛媛県立松山商業高等学校と延長18回の結果、0-0の引き分けとなった翌日の再試合も、一人で投げ抜いた太田幸司(現・日本女子プロ野球機構スーパーバイザー)。

慨嘆(がいたん)に堪(た)えないのは、この日だけで262球を投げ抜いたこと。(因みに、松山商のエース・井上明も、一人で232球を投げ抜いている)

更に、私が大いに違和感を覚えるのは、準々決勝から連続45イニングを1人で投げ抜き、準優勝に終わった太田幸司の「熱投」を、「高校野球名勝負」として、数多(あまた)のオールドファンが「非商業」的な「アマチュア野球」真髄(しんずい)の極点として受け入れていること。

太田幸司の熱投!史上初の決勝引き分け再試合

「元祖・甲子園」の究極のアイドルとして、女性ファンから追いかけ回された太田幸司のプロ野球での成績が、58勝85敗という平凡な数字の原因を、2日続きの連投を余儀なくされた「酷使病」の結果であると、一概に決めつけられないのも事実。

その太田幸司によると、「非商業」的な「アマチュア野球」の真髄の極点を表現した、「昭和の野球」のフィーチャー(特質)が、「バント多用・全員地元の9人野球・一人のエース」という命題であるが故に、「深紅の大優勝旗」が授与されたのが大阪桐蔭であるにも拘らず、「金足農業」という「物語」が、失いつつある「レトロ野球」への賛歌となったのだ。

太田幸司・2014年4月3日・ わかさスタジアム京都にて(ウィキ)

「非商業」的な「アマチュア野球」の真髄は、実は、プロ野球(日本野球機構=NPB)の世界でも踏襲されていた。

元々、プロ野球は、「学生野球基準要綱」を作成した「学生野球の父」・飛田穂洲(とびたすいしゅう)の極端な精神主義的教育に端を発し、アマチュア野球界に決定的な影響を与えたという歴史を有する。

この国で、スポーツが普及していくベースには、武士道的な徳育主義を重視した、一高的野球観(一高は、現在の東京大学教養学部)が濃密に含まれていた。

これが、大学野球に進化を遂げていっても、「武士道的な理念」が温存されていった流れは、飛田穂洲の「精神野球論」によって裏付けられている。  

飛田穂洲

―― 以下、「精神野球論」を説く飛田穂洲の、「武士道的な理念」が凝縮された断片的な文面を紹介する。

「学生野球の父」・飛田穂洲は、水戸中(現水戸一)-早大を経て、早大野球部の初代専任コーチとして黄金時代を築いた。野球を通じた人格形成や精神修養を重んじ「学生野球の父」と呼ばれる。「一球入魂」という名文句を残した。60年に野球殿堂入り。65年に78歳で亡くなった

「ベースボールを遊戯視した時代もあり、現在でも娯楽的に取り扱うものもあろう。野球の面白さ、それを一種の球遊びと考えるものがありとしても強いて異論をとなうる必要はないかも知れない。しかし吾々がしっかり抱いて来た真の野球というものは決して娯楽的に空虚な球遊びではない。

(略)今日われらがいうところの野球には、精神がなくてはならぬ。ことに学生野球というものにあっては、厳然たる精神を持たなければ存在の意義を為さない。わずかに娯楽的のものに過ぎなければ、多額の費用を投じて野球部を支持するなどは、学校本来の目的上許すべくもないことである。

(略)野球が好きだからやる、あえて苦痛を忍んでまでやる必要があるか、こうした事を考えるものがあれば直ちに野球部から追い出さねばならぬ。

(略)学生野球は遊戯ではない。遊戯でない野球には堅苦しい約束があり、修行者はその約束を守って野球部のため粉骨砕身せねばならない。部長の命ずるままコーチの命ずるまま先輩の命ずるままに従ってグラウンドを馳駆(ちく)しなければならぬ。各野球部にはそれぞれ野球部としての伝統があり、確立したる野球部精神がある。

(略)・・・精神団体として集まった野球部というものは、自然堅い約束がとりかわされ、すべてチームの指示するところによって行動しなくてはならない」(「飛田穂洲選集 野球読本 第四巻「精神野球」ベースボールマガジン社刊より ―― 昭和10年、「スポーツ良書刊行会」より「中等野球読本」として刊行された/筆者段落構成)  

「精神野球論」が集約されている飛田穂洲の著書

「野球は修行者」の世界であって、「野球が好きだからやる」者は、「直ちに野球部から追い出さねばならぬ」とまで書き切った、飛田穂洲の「精神野球論」の本質が、「体育会系原理主義」の行動体系とトレースするのは否定しがたい。

言うまでもないことだが、飛田穂洲の著書を読んでいないと思われる筒香嘉智が、この一連の言辞を知ったら、驚き、呆れ果てるに違いない。

しかし、私たちは、「筒香嘉智の正義」と対峙する飛田穂洲の「精神野球論」が、プロ野球にも相当程度の影響を与えていた事実を知らねばならないだろう。

明治40年の早大野球部・新人時代の飛田穂洲(右端)

「権藤・権藤・雨・権藤」と称された、「地獄の連投」の事実を筒香が知らないとは思えないので、いつしか、彼が発信した情報の価値が高次元で本来的な威力を発揮すると、私は受け止めたい。

「権藤・権藤・雨・権藤・雨・雨・権藤・雨・権藤」。

これが、正確なフレーズである。

権藤博・あまりに短い「全盛期」は球史に残る

大魔神・佐々木主浩(かづひろ)を得て、横浜ベイスターズを、38年ぶりのリーグ優勝と日本一に導いた権藤博の、現役時代の「酷使病」を被弾した典型例として、今でも使われている投手起用の悪しき現実である。

それは、本格派の投手をダメにするには、2、3年あれば充分であることを揶揄するものだった。

雨天日と登板試合が交互になるほど酷使され続けた、中日の新人投手・権藤博の「地獄の連投」の破壊力は、当時の流行語にもなった。

権藤博・来る日も、来る日もマウンドに立ち続ける。「権藤、権藤、雨、権藤・・・」は流行語にもなった

130試合の半分以上の69試合に登板して、35勝19敗の並外れた成績を残し、翌年も、30勝17敗の途轍(とてつ)もない数字を「置き土産」にして、2年連続最多勝に輝いたが、残念ながら、この2年間が新人投手・権藤博の全てだった。

当然、球威が落ちて打者に転向後、投手に再転向するが頓挫し、実質7年間で現役引退に至る。

これが、「沢村に一番近い剛球投手」と評されていた男の野球人生の、その現役時代の驚嘆すべき内実だった。

「酷使病」を被弾したか否かについて、「ダウンサイドリスク」(資産のダメージの度合い)が読み辛い太田幸司と比較すると、権藤博の「酷使病」だけは認知せざるを得ない。

「権藤・権藤・雨・権藤」と揶揄された、「地獄の連投」の惨鼻(さんび)のルーツの一つが、飛田穂洲の「精神野球論」にある現実を誰が否定できるのだろうか。

「体育会系原理主義」の行動体系が昇華されつつあるプロ野球の歴史を思うとき、まさに、このような極端な行動体系の典型的な事例こそ、権藤博だったのだ。

権藤博・中日コーチ時代 (2012年8月28日、こまちスタジアム)(ウィキ)

そこに、果たして、「昭和レトロ」の「故郷感」の芳香を嗅ぐことができるか。

主催者の新聞社などのメディアが過剰に垂れ流す「情緒の共有」には、スポーツ科学のエビデンスを根源的に失った「昭和の野球」の欺瞞性だけが、必要以上に舞い上がっている。
横浜ベイスターズ・38年ぶりのリーグ優勝





5  「SPORTSデモクラシー」 ―― 知の融合が進み、合理的で民主的な仕組みが生み出されていく「スポーツ文化」を構築する





以下、「アメリカンフットボール日本代表」の主将であり、法政大学オレンジ総監督で、根っからのスポーツマンである、株式会社ドームのCEO(最高経営責任者)・安田秀一(しゅういち・敬称略)の提言を傾聴したい。

そのタイトルは、「金足農の準優勝は美談ではない 選手守れぬ残酷な戦い」。

安田秀一は語っていく。


五輪後の「新国立」に、観客動員300万人の読売ジャイアンツの誘致を考案した、ドームの安田秀一社長

「今夏の甲子園の高校野球は秋田の公立校である金足農業高校の快進撃で盛り上がりました。決勝は圧倒的な戦力を誇る大阪桐蔭に2―13で屈しました。判官びいきの日本人は大半が金足農を応援していたようです。ただ、僕には金足農を応援している人も、今の高校野球のあり方に肯定的な人も、潜在する意識として『残酷さを楽しんでいる』ように感じています。選手の集め方も、練習施設も、バックアップ体制も、両校はまったく違います。ハンディを持つ側が勝利する番狂わせを面白いという気持ちは分かりますが、僕はこうした残酷なゲームを楽しむ気持ちにはなれません」

更に、語っていく。

金足農の準優勝は美談ではない。選手守れぬ残酷な戦い

「例えば金足農のエース、吉田輝星投手は秋田県大会から一人で投げ抜き、甲子園でも準決勝までの5試合を完投。決勝は途中降板しましたが、体力の限界、身体の酷使は誰の目にも明らかでした。熱中症や肩やひじへの負担によるけがといった医学的リスクを、吉田投手本人がどれだけ知っていたでしょうか。おそらく、具体的な知識もなく、投げることに夢中になっていたのでしょう。

僕には甲子園球場が、残酷な戦いを人々が楽しむ、ローマ時代のコロッセオのように感じられました。とても先進国の健全なスポーツには思えません。高校野球のフォーマットを規定している日本高等学校野球連盟(高野連)が、選手に何かあったときに責任を取れるとも思えません。学校の校長先生や監督ばかりが責任を追及され、何より、大事な学生の安全という根本問題の解決には至らないことは容易に想像できます」

コロッセオは、ローマ帝国の各地に作られた「円形闘技場」で、剣闘士同士・剣闘士と猛獣との戦いが繰り広げられ、それを見るのは民衆の楽しみだった

「甲子園の夏」を「残酷な戦いを人々が楽しむ、ローマ時代のコロッセオ」と言い切った安田秀一の確信犯的言辞は、「高校野球の悪」と言い切って、「タブー」に挑む筒香嘉智の正義の炸裂と全く同じ文脈である。

安田秀一の提言に、私は全面的に支持する。

ここで、安田秀一は、「公平さ」と「平等」の違いを履(は)き違えている日本人のスポーツ観を批判する。

「欧米のスポーツ先進国では、条件を同じにして戦うことがフェアと考えます。ところが、日本では与えられた条件が違っていても、平等に参加できることがフェアだと考えがちです。結果、『誰もが日本一を目指す』という仕組みでの活動を強いられます。中央集権の国らしく、選択肢がないのです。
 Equalityが「平等」で、Equityが「公正」

(略)フェアな戦いとは何か。スポーツ推薦がある学校での日本一、ない学校での日本一、受験を優先する学校同士が週3日の練習で、地域での優勝を競うなど、その気にさえなれば条件をそろえることはさほど難しいとは思えません。

(略)人格形成の過程において『何がフェアなのか?』ということを正しく学ぶことは民主国家において、大変重要なポイントだと思います。ましてや、環境が不利な学生を判官びいきの世論によって、さらに危険な状態に追い込むことなど絶対にあってはならないでしょう」

欧米のスポーツ先進国で構築されている「公平な競争条件」、即ち、「イコールフッティング」を揃えることが「フェア」の本質であるが、我が国の場合、「イコールフッティング」よりも、何でも「平等」に参加できることが「フェア」だと考えるので、むしろ、与えられた条件が違っている方を好むから、「甲子園の夏」を沸かせた金足農の「昭和の野球」を称え続けたのである。

金足農の「昭和の野球」は、「イコールフッティング」(「公平性」)を軽視する発想である

「イコールフッティング」の視座で言えば、「セルフ・ハンディキャッピング理論」は相当の説得力がある。

失敗しても自尊感情(自己肯定感)が傷つくことを避けるために、「競争条件が不公平だから負けた」・「初めからハンディがあったから、負けても仕方がない」などと言って、自我が予防線を張るという心理学の重要な概念であるが、ここで思うに、「昭和の野球」の実践に集約される、敢えてハンディを引き受けたかのような金足農の「致命的負荷」が、「約束された惨敗」を必然化したのである。

「セルフ・ハンディキャッピング理論」に依拠した、金足農の「約束された惨敗」を見届け、「甲子園の夏」を謳歌する熱狂的ファンは「残酷さを楽しんでい」たのだ。

「セルフ・ハンディキャッピング理論」

このことを想うとき、私は、「散りゆく者への賛歌」という一級の「感情報酬」を、観客やテレビ視聴者に対し、「コト売り」(「モノ売り」ではなく、「文化」を売る)という付加価値をつけて売り抜く朝日新聞社と、信じがたいほど、軽薄で能天気な、公益財団法人・高野連に対して無性に腹が立つ。

かくて、苛立つ感情を昇華してくれる、筒香嘉智が発信する鮮烈なメッセージに、リプライ(返信)した次第である。

筒香が日本球界に訴えた強烈な危機感

―― 以下、安田秀一の提言の最後の括り。

「戦後70年を過ぎ、地球規模で生活環境は大きく変わっています。当時つくった仕組みが、現代社会とマッチしていることの方が珍しいと考えるべきでしょう。これからも、勇気を持った発言や行動が少しずつ増えていく、発想や仕組みをより現代的に、民主的な環境に変えていこうとするエネルギーがふつふつと湧き上がってくるでしょう。

何より大切なもの、それは正しい知識と情報、学ぼうとする姿勢です。自分の知識経験を振りかざす旧世代に対して、今の若者たちはすぐに検索して正しい情報を集めることができます。このコラムも、そんな検索の受け皿となり、考える材料の一助になればうれしく思います。知の融合が進み、よりよい仕組み、合理的で民主的な仕組みが生み出されていく。そんな『SPORTSデモクラシー』が進むことを願っています」(筆者段落構成)

以上の、分かりやすいが、根源的なメッセージに加える一文もない。

安田秀一




6  「高校野球」という、飛び切りの「物語





甲子園の土を集める高校球児(ウィキ)

「高校野球」という、飛び切りの「物語」。

私はそれを、「純粋・連帯・服従」という三命題によって把握している(「夢スポーツの三命題」とも呼んでいる)。

球児たちは、甲子園という、「夢スポーツ」を具現する絶好のフィールドで、消費者(観客・テレビ視聴者)を満足させるに足る、経産省主導の「感性価値」が詰まった、極上の「物語」をパフォーマンスすることが要請される。

彼らは「スポーツ天使」となって「純粋」を表出し、「連帯」を作り出し、「服従」を演じて見せる。

「スポーツ天使」たちは、そこで、野外公演の有能なパフォーマーと化し、ステージの其処彼処(そこかしこ)にユニフォームの黒が駆け抜ける。

「夢の甲子園」で躍動する高校球児
                   


     















眩(まばゆ)い肉体が炸裂することがあっても、彼らが規範を踏み越えることは殆どない。

仲間のミスを決して責めないし、苛酷なる連投地獄を強いられた「絶対エース」が打ち込まれたら、このスポーツの本来的な性格から言って、多くの場合、「センターピボット」の円形農場の外観のように、マウンドに友情の輪が作られる。  

「連帯」こそ、「夢スポーツ」の中枢的テーマなのだ。

マウンドに集まるナイン

頭から一塁に滑り込み、そのしなやかな肉体で打球をブロックする。

一つのアウトに地団駄を踏み、一つのヒットに踊り上がる。

「純粋」こそ、「高校野球」という、飛び切りの「物語」を貫流する最強の表現なのだ。

そして「スポーツ天使」たちは、監督のみならず、誤審続きであっても、アマチュア審判のジャッジに決して異を唱えず、唯々諾々(いいだくだく)の姿勢を露わにする。

「服従」という「シャドウワーク」(物理的対価を受けない行動)の命題も、ここでは不可欠なのだ。

神戸学院大付の岩上監督

「野球の聖地・甲子園」に足を踏み入れた人々は、「純粋・連帯・服従」という三命題を演じ切る「スポーツ天使」の、熱気を帯びた「シャドウワーク」の現場を視界に収め、確認することで安堵し、予定調和の世界に誘(いざな)われるのである。

高度成長期を支えた基幹的なメンタリティであった、人々の「幸福競争」の果てに喪失した、共同体と安寧の秩序。

これを観劇するために仮構された舞台こそ、この国の公式祭事と化した「野球の聖地・甲子園」なのではないか。

「野球の聖地・甲子園」

「昭和の野球」とも称された、金足農の全人格的パフォーマンスは、都会からエスケープしてきた人々が、既に実体を持たない郷土を追体験するために、そこに仮託された青春の日々の輝きなのだ。

「高校野球」というシンボリックなスポーツは、「変わらざるもの」の価値を確認し得る、最も直接的な文化様態だったと言える。

その確認を必要とする人々をもインボルブした時代の速度感 ―― それが、この独特な文化様態を通底している。

良かれ悪しかれ、過去とクロスしながらでないと流れに乗っていけないような何か、未だ、この国に充分な思いを馳(は)せて生き残っているのだ。

「流れの形而上学」 ―― 情緒たっぷりなコンフォート(安心感)を手に入れる望外の喜びが、「夏の甲子園」で拾えるのである

「野球の聖地・甲子園」

我が国の高校野球はスポーツである以上に、その本質は「人間教育」である。

「夢スポーツ」に「夢教育」が濃密に絡んできて、現実の枠内で踊る「スポーツ天使」たちは、ひたむきに感動をリレーさせながら、予定調和の世界を駆け抜けていく。

「殉教・変身・奇跡」。

これを私は、「夢教育の三命題」という風に捉えている。

大袈裟に言えば、この三命題の基本イメージはこうだ。

「金八先生」を思わせる熱血教師がいて、加藤優(直江喜一)を思わせる不良生徒がいる。

「腐ったミカンの方程式」

所謂、「腐ったミカンの方程式」である。

熱血教師は、不良生徒の教育に逃げることなく対峙し、彼なりに命を懸けたつもりになっている(「殉教」)。

熱血教師は、相手の心情を理解し、能動的に働きかけていく「肯定的ストローク」を連射し、革命的な変化を引き起こす(「変身」)。

不良生徒の「変身」は、熱血教師の「肯定的ストローク」の結晶点であると思い込み、警察の介入を断固拒否し、何人も為しえなかった理想教育への称賛に囲繞されていく。

「ここに遂に、橋が架けられた」(「奇跡」)のである。

「腐ったミカンの方程式」

困ったことに、このような短絡的文脈の中にも、常に、一片の真実が含まれているから、一切の語り口を一蹴するには及ばないが、「大人=悪、子供=善」という二元論の決定付けには、ゆめゆめ加担すべきではないだろう。

「夢教育」は幻想である。

バイアスの濃度も相当に深い。

それは、教育のリアリズムと相対主義を軽視し過ぎているから、実体のない理想論と倣岸(ごうがん)な決定論が安易に繋がって、徒(いたずら)に正義のマーチを奏でずにはいられなくなるようだ。

この「夢教育」が、丸ごと「夢スポーツ」の黄金律と重なって、「高校野球」という、飛び切りの「物語」は、誰にも文句を言わせないほどのパワーを具有することになった。

「夢スポーツ」は「夢教育」の強力な補完を得ることで、「物語」をより純化させるのだ。

純化された「物語」が感動をより強め、そこに名状しがたい余韻を残していく。

これが、「物語」の継続力を保証する。

「高校野球」という、飛び切りの「物語」の、複合的な要素の集合性。

今更ながら、驚きを禁じ得ない次第である。


ある者はプロになり、そこで初めて本物のスターになる。

未完の英雄伝説を完結させるのである。

ベンツに乗り、浮名を流し、億単位のプレーヤーに変貌する。

その変貌に、誰も異議を唱えない。

「スポーツ天使」は、別の世界に旅立ったに過ぎないのだ。

「スポーツ天使」を卒業させた大人たちがいて、卒業証書を手にした「スポーツ天使」が、そこにいた。

羽ばたいた「スポーツ天使」たちに、人々は拍手を届けた。

それだけのことである。

人々は、また今年も、「アジール」(聖域)が守り継がれたことに安堵する。

秩序は生きている。

来年も守られるはずだ。

泣きながら土を持ち帰る「スポーツ天使」がいる限り、物語は壊れない。

それで充分なのである。
甲子園制覇7度を誇るPL学園・清原・桑田・プロになり、本物のスターになった「スポーツ天使」
「夏の甲子園」に出場した横浜高等学校時代の筒香嘉智





7  「野球医学」の視座で、「投球障害リスク」を考察する





2018年12月下旬のこと。

新潟県高野連が投じた一石が、高校野球に波紋を呼んでいる。

1人の投手が1試合で投げられる球数を、100球に制限すると発表したからだ。

極めて高い確率で、高野連は否定的であると思われる。

もし、高野連にその気があったなら、疾(と)うに実現できたからである

2019年の春季新潟県大会で、「球数制限」を導入する新潟県高野連

「球数制限」実施について話す、新潟県高野連の杵鞭(きねむち)専務理事(左)と、富樫(とがし )会長

僅か一握りだが、プロを目指すであろう選ばれし高校生を、「酷使病」に起因する故障から守るために、「甲子園の夏」を主催する高野連・朝日新聞社は、口先で「理念」を主唱する、実質的な改革に真剣に取り組まず、殆ど無為な時間を累加させてきてしまった。

安田秀一の言葉を借りれば、「戦後70年を過ぎ、地球規模で生活環境は大きく変わっています。当時つくった仕組みが、現代社会とマッチしていることの方が珍しいと考えるべき」であるにも拘らず、「人類の創造的な文化活動の一つである競技スポーツ」(文部科学省)が、激流の時代の変化がマキシマムに達しても、我が国の「スポーツ文化」の代表格・「甲子園の夏」だけは、「昭和レトロ」の「故郷感」の芳香を嗅いでいるのである。

この一点だけを大写しすれば、朝日と産経は対立する「イデオロギー」を超えて睦み合い、「昭和の野球」が内包する「酷使病」の陰惨な破壊力を無視し、相手の人格の総体に、思いを込めた「肯定的ストローク」を架橋せずに、呆れるほどに我関せずなのだ。

“プロ部活”のための夏の甲子園──ますます空洞化する「教育の一環」

「スポーツ文化」の進化に関わる、コミュニケーションの致命的欠如。

この厄介な現実に、大手メディアの合理的思考がアウトリーチ(手を差しのべること)できない風景に張り付くのは、「昭和レトロ」への深い愛着心のみ。

これが、我が国の、国技にも似たスポーツとの、異様なまでの近接感覚なのである。

「昭和レトロ」への深い愛着心で、「酷使病」の現実を無視されたばかりか、絶賛された吉田投手

先の新潟県高野連による提案の根柢にあるのは、「投球障害の予防」という問題意識である。

日経デジタルの「100球制限の是非は?・新潟県高野連が投じた一石」によると、筑波大学の元硬式野球部部長で、「野球医学」を専門とする馬見塚(まみづか)尚孝さんは、高校生を故障から守るため、「よき指導要領とそれを学ぶ仕組み」の導入を提唱する。

「近年、野球障害を予防し、パフォーマンスを高め、よき人材育成につながるサイエンスがどんどん進歩しています。試合での投球数制限以外にも、『投球障害リスクのペンタゴン(後述)』をはじめとする障害予防と、パフォーマンスの両立法などの知識を含んだ指導要領を野球の連盟が作成し、その指導要領を指導者や選手、保護者が学ぶ仕組みも早期に考える必要があると思います」

馬見塚尚孝さんの言葉である。

体に負担のかからない投球動作を指導する馬見塚尚孝・西別府病院の野球医学科長

「確かに短期的にはルール化したほうが早く選手を守れますので、その場合は、試合での投球数と投球障害発症の関係を調査してエビデンスの質をあげたいところです。ほかにも、甲子園大会や地方大会での投手の投球数とその後の投球障害発症率調査や、甲子園に導入された『トラックマン』という動作分析システムなどを用いて、投球に伴う『疲労』を調べるのもよいでしょう。このような調査を行うことによって、より質の高い『根拠』が示せるのだと考えます」

これも、馬見塚尚孝さんの説得力あるブリーフィングである。

「投球障害リスクのペンタゴン」。

馬見塚尚孝さんが命名した独特なフレーズの意味は、以下の5つの要因を考慮しなければならないとのこと。

それぞれ説明していく。

     個体差 180センチの選手と150センチの選手、骨の未熟な前思春期の選手と成長の終了した選手、柔軟性の高い選手と低い選手、既往歴のある選手とない選手では、同じ100球の投球でも肩や肘への影響にも差が出ます。この個体差を評価する方法として、成長速度曲線の作成をはじめとする個人の評価を行い、それぞれにトレーニング法を設定するのがよいでしょう。

     投球動作 これはフォームのことですが、特に肩、肘に負担が大きいコッキングフェーズ(グラブから球が離れ、踏み込んだ足が完全に接地するまで)での投球腕の動かし方や体幹との関係などによって、負担が異なります。けがをしにくいフォームと、けがをしやすいフォームがあるということです。この投球動作を改善させるためには、「運動学習」という理論で、「理想とする運動技術の把握」・「真似(まね)ぶ」・「コツやカンを習う」・「量質転化」というステップを踏む必要がありますので、投球数を減らすという考えだけではリスクは減りません。

     コンディショニング 疲労度や睡眠状態、栄養状態、柔軟性の状態など内的なコンディショニングに加え、気象条件やマウンドの状況などの外的なコンディショニングも考慮する必要があり、疲労した状態での投球は100球未満でもリスク要因となります。

     投球強度 投球数を50球以内と制限しているにもかかわらず、肩や肘を痛めて、選手がやってきます。多くの選手に共通しているのは「球数を減らす分、なるべく全力で投げている」ということです。工学分野では疲労を証明する「S-N曲線」という専門用語がありますが、これは投球数と投球強度の関係を説明するのに有効です。数は必ず強さを考慮しなければならないことを示しています。最近の大リーグの研究でも、球速が速い選手ほど手術に至っていることが示されています。全力での遠投なども、選手の成熟度などを考慮して許容しなければなりません。

     投球数 投球制限をすれば故障予防に有効な一方、外来には投球数を制限しているにもかかわらず、肩や肘を壊して選手がきます。これは前述の投球強度や投球動作、コンディショニングの影響を考慮しなければならないことを示しています。実際の指導では、投球数を増やすために投球強度を落としてもらうことや、コンディショニングがよい状態で行うことなど、ほかの4つの要素のバランスを考えることを選手に伝えています。



なお、「投球障害リスクのペンタゴン」を具体的に図で示すと、以下のようになる。



図1)投球障害のペンタゴン 実例1

【図1の解説 高校生投手の動作習得期にペンタゴンを説明した一例。

この投手は投球動作に課題があり(40点)、技術力向上のため多くの投球数(100点)を必要とすることが見込まれた。このため投球強度を低めに設定し(60点)、コンディショニングもあまり疲労のない程度に設定した(60点)。短期的には個体差は変わらない(80点)とした。

次に投球動作が改善してきたため(60点)、実戦練習を行うことにした(実戦練習期)。実戦では投球数を減らし(80点)、投球強度を上げ(80点)、試合が近いためコンディショニングもやや悪化したと考える(80点)。さらに実際の試合では(試合期)、全力投球も必要となるため(100点)、投球数を減らし(60点)、コンディショニングも改善し(60点)、さらに投球動作は改善していると指導した(80点)】



図2)投球障害のペンタゴン 長期選手育成

【図2の解説 小学生投手から高校生投手までの長期選手育成をペンタゴンで考えてみる。前思春期とは第2次性徴がまだ始まっていない段階で、肘には軟骨が多く故障しやすい。このため5つの要素をすべて40点と設定。これが思春期に入ると肘の成熟もかなり進み、投球動作も上手になり、投球数や投球強度、コンディショニングのレベルもやや上げられる。さらに成熟して成人期になると、肘の成長軟骨も消失して大人の肘になり、すべての項目の点数を上げられるようになる】

「こうしたレーダーチャートを選手自身がつくることによって、選手は必要な知識を得ることが求められる。自己決定することで内発的動機づけも高まり、パフォーマンスとリスクの両立を学ぶことができるようになる」

馬見塚さんのブリーフィングである。

馬見塚医師が別府市に、自著「野球医学」を寄贈

結局、投球制限だけでは誤解を生みかねない。普段から投球練習を制限し、試合で疲労から投球フォームの肘が下がり始めているのに、100球に達していないからと、監督も選手も問題ないと勘違いしたら、どうなるか。

某高校の野球部部長は、以下のような言葉を添えた。

「100球制限がルール化されたら、100球までの過程を考え、その日どうやって100球に到達したのか、どうすればもっと効率的だったかを(選手は)考えるようになると思います。残りのスタミナをどう使うか、どのくらい力を入れて投げるか。時間や数が無制限だと、逆に考えるスピードが速くならないかなとも思うんです。相手打線、天候、球場、その日の自分、いろんなことを加味して100球をイメージするはずです。

(略)企業に当てはめれば、結局、何かしらの締め切りにより動き、その時間内で最高のパフォーマンスを出さないといけない。その力は生徒には必要だと思います」

生徒は、そこから学ぶこともあるということだが、もちろん、今回の投球制限はそれを意図したものではない。

ルール化の前に一度、状況を整理する必要がある。

それを促すことになるなら、新潟県高校野球連盟が一石を投じたことは、大きな意味を持つのではないか。


変わるべきとき・変えるべきとき」は、逡巡(しゅんじゅん)せずに変わっていかねばならないのだ。
新潟県高野連・新潟日報は22日の電子版で、「故障予防や選手の出場機会増などが目的」と伝えている





8  「高校野球の悪」 ―― 「タブー」に挑む筒香嘉智の正義の炸裂 ―― 終わりに





筒香会見・「新聞社が主催しているので、子供たちにとって良くないと思っている方がたくさんいても、なかなか思いを伝えられていないのが現状だと思う」

野球界への警鐘を鳴らす筒香嘉智の勇気の発信が、ベースボールの国・アメリカでも話題になっている。

筒香の勇気が、本稿の推進力にもなった。

スポーツ全般に関心を持ちながら、どうしても起筆できなかったのが、我が国の「スポーツ文化」に澱む、「高校野球」に代表される「酷使病」の悪しき実態である。

何度かブログで表現しようとしたが、「書いても意味がない」と勝手に決めつけて、断念した次第である。

そんな折に出現した「筒香会見」。

筒香嘉智「日本球界は時代の変化に取り残されている」

正直、反復が多い「筒香会見」を繰り返し読み、動画でも確認した。

「これだけは言わねばならない」

感情を抑制しつつも、この覚悟を抱(いだ)いて、自分の思いの丈(たけ)を、熱意を込めて語っていく「筒香会見」には、「野球人口」が減少し続ける因子の一つが、母親をも動員させて指導・管理する、「少年野球」でのスーパーバイザーの「勝利至上主義」と、それに起因する圧力的指導の弊害を誹議(ひぎ)する論調に貫かれていて、激しく心が揺さぶられた。

本当のところ、「炸裂」という表現は相応しくなかったが、この言葉にこそ、筒香嘉智の「正義」の行使が生きると考えたからである。

話半分に聞いておくというスタンスが正解だろうが、「正義」を「炸裂」させた「筒香会見」が、米国でも話題になり、ニュースバリューとして膨らんだ事実を評価しても、少なくとも、我が国の報道の味気なさを思うとき、残念ながら、自国民に向けた「筒香会見」の影響力は限定的だった。

それでも、「筒香会見」の価値は、決して劣化することがないだろう。

「筒香会見」

―― 以下、米国で話題になっているという、AP通信(米国の大手通信社)が配信した記事の紹介の断片。(Full-Count編集部=AP)

題して、「DeNA筒香の野球界への警鐘会見が米国でも話題『母国の野球を改善』」。

2018年のMLB(ウィキ)

「AP通信は『MLBでのキャリアを始める前に、ツツゴウは母国の野球を改善させることを目指している』と見出しを付け、将来の野球界に向け警鐘を鳴らした筒香を特集。

記事では日本のアマチュア野球界で苛酷な練習、体罰などが問題視されていることをレポート。筒香が球界の未来に向け記者会見を行った様子を紹介し、『母国での野球界の現状を正常化させるために尽力している』と伝えている。

また、野球指導者の方針、勝利至上主義など様々な問題点を訴えかけたことに言及し、『元レッドソックスの投手であるダイスケ・マツザカは、高校時代にマラソンのように投げ続ける投手としての象徴的存在だった』と、高校時代にPL学園と延長17回の死闘を演じた松坂を例に挙げている。

松坂大輔・高校3年間の公式戦通算成績・59登板・40勝1敗 

高校時代に活躍した選手たちのその後にも注目し、『マツザカに加え、ユウ・ダルビッシュとショウヘイ・オオタニも日本の高校野球のシステムの中で耐え抜いたものの、結果として彼らのプロとしてのキャリアの中で、腕に怪我を負ってしまった』と、メジャーでケガに苦しんだ現状を伝えている」

筒香がひとり矢面に立っている

―― 以上、「高校野球」の「酷使病」の悪しき実態を、ネガティブに紹介するAP通信の記事には、どこまでも、MLBの視座から見る「日本の野球文化の弊害」が語られていて、恥じ入る思いが強いが、不本意ながら、この現実を認知せざるを得ないのである。

だからこそ、我が国のアマチュア野球の改革を主唱する、筒香嘉智の正義の炸裂が歴史的価値を持つ所以となる。

筒香嘉智を孤立させてはいけない。野球界の歩みを進めるためには、声をあげる選手が必要だ

―― 本稿の最後に、「高校野球」の「酷使病」には科学的根拠があるのか、という根本的な問題に言及したい。

の問題の因果関係については、実は相当の難題なのだ。

「投手酷使指数」(PAP)というMLB特有の概念が少なからぬ影響力を有するが、実際のところ、この指数が、どれほどの科学的根拠(エビデンス)に依拠しているか未だ不分明なのである。

「投手酷使指数」

現役投手の1年以上を棒に振る事態を必至にする、肘(ひじ)の靱帯断裂(じんたいだんれつ・靱帯は骨と骨を結合し、関節を形成する)に対する、「トミー・ジョン手術(側副靱帯再建術)」に代表される外科的治療の有効性を疑う者ではないが、「これ以外の有効な指標もない」と言われる「投手酷使指数」の数値に対し、アメリカでも評価が分かれれているのが現実である。


「酷使病」が明らかな権藤博と異なり、PAPの数値が小さくても故障する投手がいて、先の太田幸司の例のように、プロ野球の実績と「酷使病」の因果関係について科学的に説明できないケースがある。

最近の研究では、全力投球をすれば球でも肩や肘を損傷すると言われる。

「腕を振れ」はNGワード(朝日はこういう記事を書きながら、「甲子園の夏」での「酷使病」を改善させていない欺瞞性)

これには、登板間隔の問題もあるので、個人差を無視できないのも事実だが、常にギアを上げる「全力投球派」よりも、ギアを上げ過ぎない「制球派」の投手の方が、「酷使病」のリスクが小さいと思われる。

しかし現状では、「これ以外の有効な指標がない」のだ。

従って、MLBの球団がPAPを遵守するアプローチが、どこまでも経験則の範疇を超えないのである。

それにも拘らず、「金足農・吉田輝星投手の玉砕的登板」に典型的に現出しているように、「高校野球」の「酷使病」というテーマに対峙し、真摯にアプローチしていく行為が喫緊の課題であることは言うまでもない。

金足農の優勝条件は吉田輝星だった。 直球にかけた希望と、限界の到来

その意味で、先述した,「野球医学」を専門とする馬見塚尚孝さんが提示した分析的見解が、相当の説得力を有すると思われるのである。

「高校野球の悪」 ―― 「タブー」に挑む筒香嘉智の正義の炸裂。

筒香嘉智が投げかけた根源的テーマに対し、私たちはメディアや専門家に働きかけ、「時代の進化と変遷」を実感できるように努めねばならない。


新たな「野球」のシーズンが、今年もまた始動する時期を迎え、そう思うのだ。

菊池雄星(現在・シアトル・マリナーズ所属)「僕らが続かないと失礼」 筒香の勇気ある発言を孤立させるな(ウィキ)

【ここまで読んで頂いて、心より感謝します】

【参考資料】

「THE PAGE」 筒香会見「新聞社が主催しているので」発言をやっぱり“朝毎”は報じなかった問題・文春オンライン  高校野球の呪い「酷使病」──アマチュアスポーツの“素人性”が引き起こした金足農・吉田輝星投手の悲劇・松谷創一郎  100球制限の是非は?・新潟県高野連が投じた一石・丹羽政善 金足農の準優勝は美談ではない・選手守れぬ残酷な戦い・ドーム社長・安田秀一  金足農監督「好きなだけでは勝てない」・新チームは大敗・神野勇人・朝日新聞デジタル  DeNA筒香の野球界への警鐘会見が米国でも話題 「母国の野球を改善」  「もう限界です」金足農主将がエース吉田降板を進言・日刊スポーツ  拙稿「スポーツの風景」・「高校野球という物語」  拙稿「心の風景」・「この国で、『野球』とは何だったのか ―― 『体育会系』から『知的体育会系』への風景の遷移」  MLBが気にする「投手酷使指数」とは。投手の肩という資産の有効運用を。

(2019年2月)