2008年11月8日土曜日

消費としてのスポーツ ― プロとアマの問題に寄せて


 多くの人々が考え違いをしていると思われる問題の一つに、プロとアマの問題がある。(ラグビーの試合中のスクラム)
 
 一体、プロとアマのボーダーをどこで引いたらいいのかという問題提起は、オリンピックを開催する度に必ず出来するので、私たちにとって非常に身近なテーマになっている。議論の流れが、アマチュアリズムの解体の方向に進んでいることもまた周知の事実である。

 それにも拘らず、多くの人々がアマチュアリズムを「非商業主義」とか、「勝利至上主義の否定」とか、「愛好精神」等々というイメージによって漠然と把握することで、そこに何か、プロとは違う純粋なメンタリティを読み取っているらしいことに、正直私は馴染めない。プロとアマを分けるのは、金と勝負への拘りであり、詰まる所、それらをリトマス紙にするときの感情の純度の問題なのだ、というアマチュア礼賛者たちの確信的な声が聞こえてきそうでもある。

 果たしてそうか。

 現実問題を言えば、今や、その境界は殆ど崩れてしまっている。テニスにはプロが出場し、1992年のバルセロナ大会のバスケはNBA(注1)の一人舞台。レスリングにさえもプロの参加が検討され、2000年のシドニー五輪からは、プロ野球選手がステージに乗るという具合。既に、最も華やかな国際舞台において、ルビコン川は渡られてしまったのである。
 
 驚くべきことでもない。
 
 1920年代の英国の陸上ランナーを描いた、「炎のランナー」(ヒュー・ハドソン監督)という映画には、プロコーチを雇って自分の記録を伸ばしたユダヤ人ランナーのエピソードが、実話として興味深く描かれていた。プロ・アマの問題は、近代オリンピックが宿命的に抱えていたことを知るべきである。

 「有閑階級の理論」で著名なヴェブレン(注2)によると、元々、スポーツの起源は貴族階級の狩猟をルーツにすると言う。彼らは、自らが労働から解放された階級であることを誇示するために狩猟をゲーム化したのである。スポーツは貴族の階級的デモンストレーションだった、という説は極めて興味深い。 

 英国貴族のノーブレス・オブリッジの思想(紳士は対価を求めるな)と、スポーツの起源には極めて符合性がある、と私は見ている。アマチュアリズムとは、要するに、「不労所得階級である上流階級の発想」(山田誠著「スポーツマンシップの国 イギリス」/TBSブリタニカ刊)として英国に生まれ、貴族の特権的浪費をプライドに包んで合理化したイデオロギーだったということだ。
 
 無論、このラインとは没交渉に、民衆の自然発生的スポーツの流れがある。

 その代表が、11世紀の子供文化の中に誕生したフットボールである。ボールを蹴って、ゴールポストに入れるという単純な遊びが普及しないわけがなく、その熱狂による勤労停滞を恐れた英国国王が、何度も「蹴球禁止命令」(注3)を出した話は有名である。

 サッカーに狂奔する人々の中に、アマチュアリズムの小賢しい差別的観念が寸分にも入り込む余地などない。元々、民衆はスポーツに過剰な理念を仮託しないのだ。スポーツで稼げる人間がプロとなり、その稼ぎを安定させるためにスキルを磨き、長くプロを張って生きる。それだけのことだ。

 近代社会でのプロ選手が金と勝負に拘るのは当然過ぎることであり、それと一線を画すかのような愉楽としてのスポーツの価値なるものが、相互に厳しく対峙するものでもあるまい。
 
 オリンピックが今後、プロ・アマなしの高度な身体運動技能のコンクールとして、進化を果たしていく流れは、技巧のレベルにおいて既に限界が見え隠れしているものの、基幹的な流れの加速化は止まらない。アマチュアリズムを死守せよと叫ぶ人々は、商業主義のオリンピックを蹴飛ばして、自分たちで納得のいくスポーツ文化を純粋培養していけばいいのである。それもまた、相応の文化的価値を持つに違いないのだ。

 思うに、プロとアマチュアの違いを、職業的自立とか感情の純度の問題で分けることに、果たしてどれだけの意味があると言うのか。

 勝敗に拘るのは近代スポーツの宿命だから、敢えてその概念を分水嶺にするのも及ばない。職業的自立性によって、両者の間に明瞭な境界を引こうとするならば、殆どのプロボクサーはプロの看板を降ろさなくてはならないだろう。彼らはまさにプロボクサーを続けるために、他の職業に就き、そこで日々の糧を得ているのである。それでも彼らは、単に趣味だけでボクシングを続けているわけではないのだ。

 私の知っている、ある元東洋チャンピオン(2008年現在・ボクシングジム経営)は、彼がまだ無名の頃、B級トーナメント戦で対戦した相手に対して、「アマチュア上がりに負けるわけにはいかない」と洩らしたことがある。彼はこのとき、一日の大半を運送店のドライバーとして拘束されていて、そこで得た僅かな収入でジム通いを続けていた。しかし彼の意識の中では、プロボクサーという明瞭な自己規定が既に厳然と形成されていたのである。

 ここで、「プロが、アマチュア上がりに負けるわけにはいかない」というときのアマチュア概念には、「プロの洗礼を受けたことがない者」という重大な含みがある。

 プロとは、それを職業にする者である。正確に言えば、それを職業にしているという意識である。それを職業にしながら、そこから糧を得ていなくても、職業意識によってそれと繋がっているならば、その主体は紛れもなく、それに対するプロそれ自身であると言っていい。プロとアマの差とは、このような職業意識にこそあるのだ。

 明瞭な職業意識を持つ者が、それに対する職業意識をまだ充分に形成していない者に負けられないという意識こそが、まさにプロ意識そのものなのである。プロで何年もの間、培ってきた経験による自負が、人気先行の新人に闘士を燃やすとき、その自負に嫉妬心が張り付いていたにしても、それを含むメンタリティもまた、紛う方なくプロ意識といっていい。

 職業意識が培養した自尊感情の差が、しばしばリングでの戦いの優劣の差を分ける。より高みに上ったプロは、簡単に敗北するわけにはいかないのである。

 敗北しても、敗因を語らない。語ってはならないのだ。ただ、力が及ばなかった。そう語るだけだ。それ以外の言葉は不要である。コンディション作りに失敗したとか、先週からの風邪が治らないとか、肉親の不幸で精神的に参っていたとか等々の弁明はおよそプロの言辞ではない。プロとは、敗北の弁明を自らに許さない職業的負荷意識である。その意識の差がプロとアマを分ける。それ以外ではないのである。

 独自路線を歩むラグビーのモットーとなっている、「オール・フォー・ワン、ワン・フォー・オール」(皆は一人のために、一人は皆のために)という二律背反的な理念によって、アマチュアリズムを駆け上るのもまた、一つの充分過ぎる存在証明ではある。文化でもあるし、それを守る知恵でもあるだろう。

 しかし、ラグビーという近代スポーツの面白さは、そんな理念を遥かに超えたところにこそある。スクラム(注4)やモール(注5)となった巨漢の激突の迫力と、巨木の間を抜ける小兵の疾風の如き走り。このダイナミズムとスピードこそ、近代スポーツの魅力の源泉である。

 これが、大衆を興奮の坩堝にする。大衆は理念では反応しないのだ。

 理念で開かれた近代スポーツが大衆に届けた最大の快楽は、近代スポーツそれ自身の超絶的技巧の進化にあった。大衆は単に、スポーツの醍醐味を堪能したいだけなのである。プロであろうとアマであろうと、人々は面白ければそれでいいのである。

 そんな生理で動く大衆に、近代スポーツは鋭敏に反応し、過剰な技巧によって応えていこうとする。アスリートサイドが、大衆の無言の要請に反応していく速度が性急になって、外野席から俯瞰していると、しばしば筋肉増強剤を使ってまでも、記録の更新に駆り立てられる過剰さに驚かされるのだ。

 現代スポーツの過剰さは、先進国の高度成長以降の大衆消費経済と、その欲望自然主義の繁栄である。より超絶した技巧を消費する、言ってみれば、「快楽の代謝」という一点に、大衆の熱狂が集合する。

 かつて、MLB(注6)にそれほど関心がなかったこの国において、そのMLBの本場で1998年を頂点として展開された、マーク・マグワイア(セントラル・カージナルス)とサミー・ソーサ(シカゴ・カブス)の連年に渡ったホームラン競争の過熱は、大衆がリードする現代スポーツの一つの到達点であったと言えようか。
 
 では、「家畜福祉」(福祉の考えによる家畜の飼育)の思想によって問題化されつつも、まるで合理主義を究めた「光線管理」(黄体ホルモンの分泌を刺激するためにのみ、朝夕にライトアップ)によるウィンドレス鶏舎の蜜飼いの採卵マシーンの如く、スポーツ合理主義的な推進力によって駆り立てられたアスリートたちは、超絶度を進化させ尽くした向こうに、一体何を見るか。

 100mを8秒台で走り、42キロを1時間台で走る時代が到来することが本当にあり得るのか。砲丸投げ、棒高跳び、競泳、スピードスケートなども含めて、近代スポーツはそろそろ、人間の身体の能力限界に近づいているように思える。人類最後の記録に達する時期が迫っているのだ。ミュンヘン大会から、短距離では100分の1秒の計測を採用しているが、これが1000分の1秒になり、10000分の1秒の計測にシフトしていくことに、果たしてどれほどの価値があるのか。

 大衆の注目と熱狂の中で進化してきた近代スポーツに、簡単に限界が迫っているとは思わないが、効率の追求(勝敗主義の帰結)と、ロマンの追求(物語としてのスポーツ)の結合のうちに、大衆の熱狂を保証してきた近代スポーツが効率の追求を捨てて、超絶技巧への走りを緩和し、表現の純度のみで人々の熱狂に応えていく時代を開くことになるのか。誰もその行方は分らないのだ。
 
 いやそもそも、大衆の熱狂に反応するスポーツの在り処が問われるのかも知れぬ。過剰な観念を払拭し切った果てに、新しいアマチュアリズムの展開が見られるのかも知れぬ。それでも勝敗主義の自壊には至るまい。ロマンの追求を清算する事態の展開もあり得ないだろうから、記録の更新への拘泥を柔軟にするという展開によって(例えば、170キロの快速球への期待をあっさり反古にして、他の可能性に効率的追求をシフトするなど)、大衆の熱狂に誘導的に反応していくという未来図を描く以外にないのかも知れない。スポーツを消費する時代が、いよいよ鮮明になってきた。


(注1)全米プロバスケットボール協会の略。アメリカの四大スポーツの一つで、1946年に発足し、現在、全30チームによってレギュラーシーズンを戦う。

(注2)19世紀から20世紀にかけて活躍した、アメリカの著名な社会学者、経済学者。制度派経済学の創始者としてガルブレイスらに影響を与えた。主著である「有閑階級の理論」は、貴族の心理や生態を克明に分析していて、十分に説得力がある。

(注12)14世紀のイングランド、街路で行なわれた蹴球試合において、あまりの暴力沙汰が頻発するのに業を煮やしたロンドン市長によって「治安維持のために発せられたる布告」がこの蹴球禁止令である。その頃の蹴球は、現在のサッカーとは似ても似つかぬもので、いわば喧嘩祭りのようなものであった。少なくとも一定のルールに従うスポーツではなかった。(「サッカーのルーツを探る」加藤良一氏HPより)

(注13)「ボールを所持していたプレーヤーがボールを前に落としてしまったり(ノックオン)、ボールを前に投げてしまったり(スローフォワード)、軽い反則があった後に行われるプレーのリスタート方法です。両チームのフォワード(FW)8人同士が組み合い、両チームが組み合った中間に、一方のチームのプレーヤー(スクラムハーフ)がボールを投げ入れます。投げ入れられたボールを、投げ入れたプレーヤーのいるチームが足で後ろにかきだし、スクラムを組んだ最後方のプレーヤー(ナンバーエイトやスクラムハーフ)がボールを取り出すことによってプレーが再開されます」(Sports-rule.com「ラグビーの用語解説」より)

(注14)両チームの選手が、ボールを持った選手を囲んで、組み合った状態で、それぞれの肉体を密着させているゲーム様態のこと。

(注15)メジャー・リーグ・ベースボール(大リーグ)の略で、現在、アメリカとカナダ(トロント・ブルージェイズの1チームのみ)のチーム合わせて30チームが、各地区に分かれてリーグ戦を戦い、そこで勝ち残った両リーグの代表が、10月のワールドシリーズのステージで、ワールドチャンピオンを決める。

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